幼少期の私は姉であるがゆえに「我慢すること」を両親から求められていました。ありのままで存在を認められる弟とは違って、私は「我慢」してこそ、存在出来るのだと感じていました。
ちょっと眉をひそめることも不機嫌そうに息を吐く事も「態度に出すな」とか「可愛げがない」とか、負の感情がわかる表情は否定されがちでした。
いつのまにか自分の負の感情だけでなく、あらゆる感情を一旦引っ込めて、様子を見る癖がつきました。
そして「こうしたい」とか「こうして欲しい」と思う時でさえ、自分の感情はなかなか外には出せなくなっていました。
中学の時に人気の男子と話しただけで、一部の女子達の鋭い視線とトゲトゲした空気が身体にまとわりつくつくのを感じました。
彼女達の笑い声の中に、自分の名前が入っていた気がして、それ以来その男子とは目すら合わせなくなっていました。言いたいことよりも「嫌われないこと」「目をつけられないこと」の方を優先したのです。
先日、子どもの塾の先生に連絡しました。
事実だけを書いた文面でした。
「成績が伸び悩んでいます。」
「このままでいいのか、他の選択肢も検討する必要もあるのでしょうか」
箇条書きで送りました。
決して責めてるつもりはありませんでした。
そこに私の感情は無く、業務連絡の様な書き方にしたつもりでした。
先生の返事は、まず「申し訳ありません」でした。
あ、怒ってると思われたんだ。
責めてるように感じられたんだ。
私が並べた事実の中に、塾の先生は私の感情を読もうとしていたのだな、と気づきました。
事実だけでは、人を不安にしてしまうのか。
事実だけだと、不快に感じていると読み取ってしまうのか。
私の文に感情が抜けているから、他人は私の感情を読み間違えてしまうのだろうか。
言葉だけでは伝わらない時があるのなら、
気持ちを添えてから、事実を語る方がいいのかもしれないと感じたのでした。
私は少し苦手だけれど。
先生のことを責めたいわけじゃないです。子どもの将来が心配で、そして成績を伸ばしたいという想いがありました。
と付け加えて、改めて連絡したのでした。
事実をそのまま受け取る人もいます。
感情を読み取ろうとする人もいます。
どちらがどうとかじゃなくて、
そういう違いがあるんだなと思っています。
だからたぶん、これからも私は…
感情を表に出すことに少し気まずさを感じながら生きていくのだと思います。
ただ言えなかった気持ちさえも、
誰かの心の中で、静かに伝わっていくことがある。そう信じているところが確かに自分の中にあるのです。