翌朝、ソファで毛布にくるまって眠った私が目を覚ましてベッドを確認すると、彼女の姿はとうになく、起き抜けのまま乱れた白くないシーツと埃っぽい残り香に僅かに痕跡を残すだけだった。私は安堵するような、淋しいような複雑な気持ちで彼女のいないベッドをしばし眺めた。
万物に活力を与える朝の光が家の中にまで届いていた。昨日の怖いようなどしゃ降りが嘘のような気持ちのいい晴天だ。こういう日は庭いっぱいに竿を立てて予 期しない闖入者のために使ったタオルや衣類がさぞ溜まってるだろうから、豪快に広げて洗濯物を干すに限る。それしかない。
そう考えて室内を探してみたが、昨晩確かに無造作に放り入れておいたざるも、そこら辺に片付けないで出しっぱなしの私の衣服も何も忽然と消えていた。森の 動物の悪戯にしては洗濯物ばかり狙われすぎている。私は、心当たりがあると思って扉から屋外へ出て家の裏手の井戸に向かった。既に発ったはずの彼女は、私 の与えただぶだぶのデニムシャツを翻してポンプから水を汲んでいるところで、私の気配に気づいても作業をやめようとしなかった。
「おはようございます。今日はいい天気ですねー。」
「はい、おはようございます。小さなお嬢さん。水なんか汲んで何をされてるんですか?」
「見て分からないですか?迷惑をかけたから洗濯しておこうと思って。それにしてもこのポンプ、古くてがたがきてますね。さっきからゆうこと聞かなくって。うんしょ。ちゃんと手入れしてるんですか?」
「そうですね。ずっと手入れしていません。今からオイルを差すから、お嬢さんはポンプから離れてください。ついでに、水を汲むのも、洗濯するのも私がやるから、いいですよ。」
「そんな、あたしがやりますよ。迷惑をかけたのはあたしですから。」
「ついでに申し上げておきます。私はずっとひとりで暮らしてきたから、誰の助けも必要ありません。このポンプも、癖があるだけで、私がやればそんなに力を入れないでも水が汲めます。代わってください。・・・ほら。」
私にとっては錆びた年代物でも日常の道具だった。要領を得た私が代わりにやると、ポンプはすぐにめいっぱいに井戸水を吐き出し始めた。
「すごーい。そうやるんだ。」
「そうですね。分かったら、もう用済みのはずですよ。昨日私の言ったこと、憶えていますか?」
「・・・朝日と共にこの家を立ち去れ、ですか・・・?」
「はい。もう太陽は昇ってると思いますが?」
彼女の顔が曇った。
「どうしてもダメですか?」
「ええ、ダメです。お嬢さんはいばらの森の住人ではないですから。早々に立ち去りなさい。」
「でも魔法使いさん。あたし、朝から洗濯のことで頭がいっぱいで何も食べてなくて腹ペコなんです。食事くらいはいいですよね?そうでないと、途中で倒れちゃいますよ。」
彼女は頑固に粘り続けるので、私も根負けして彼女の要求を呑むことにした。
「・・・悪い子ですね。いいでしょう、朝は出しますから、食べたら発ちなさい。必ずですよ。」
「やったー。じゃあ、先に行って食べてますね。」
「・・・手が焼けますね、全く。」
 
活発で一処になかなか落ち着かない彼女は、私が食事を作ると言っても聞かず、私がかまどに向かって火を使うすぐ横に立って私の手際に感心したり、自分も真 似して火傷しそうになったり、何とか言いくるめて席に座らせても、皿を確かめて危うく落としそうになったり、普段は開けない窓を開放して望まない風を招き 入れ、ナプキンやタオルを吹き散らしたりと、それは騒々しかった。彼女の手を借りながら2人前の朝食を用意して、私と彼女で対面して食事を始めてからも、 彼女はいばらの森での生活が長くてそれを当たり前だと思っていた街ではありえない食材と献立に興味津々のようで、私を質問攻めにしたり、恐る恐る口に入れ て顔をしかめたり「旨い」と指でサインを掲げたり、彼女のやることなすことの一切が私には驚きで、新鮮で、なぜか彼女を怒る気にはならなかった。
森の薬草入りのスープとパン、黄金鶏の卵で作った目玉焼き、数種類の森の果実、という独り身としては豪勢な朝食は、彼女が出発を渋るためにだらだらと1時 間も続いてしまった。それでも朝食の終わりは来る。倉庫に保管してある分まで食べ尽くしそうな彼女の勢いに見かねて、私が強制的に森の果実を下げたことで 食べるものがなくなり、彼女も断念するしかなかった。
「あー。ずるい。」
「ずるくありませんよ。いくらなんでも食べ過ぎです。これ以上食べると太ってしまって、森を抜ける前に転がって起きれなくなりますよ。さ、観念なさい。もう出発ですよ。」
「まだ食べれるよ!もっと持ってきて。」
「ダメです。それに、昼飯にするつもりですか?朝食を食べ終えたら、のはずですよ。」
「・・・ちぇ。」
彼女はブスッとした顔で立ち上がり、扉を出ようとしたところで明るく振り返った。分かりやすい子だ。
「そうだ、このシャツ洗ってからいくよ。」
「その手には乗りませんよ。そのシャツはあげます。・・・いいえ、待っててください。」
私は、奥の部屋に入って普段は絶対に開けないたんすの引き出しから織物を持ってきて、彼女に押し付けた。首を傾げつつも織物を広げる彼女。
「これは・・・?」
「私には要らないものです。一応、ショールですね。これを餞別にしますから、もう観念していばらの森を出なさい。シャツも差し上げます。どうか、無事で帰ってください。」
「・・・そ、分かった。ありがとう。あたし、お邪魔だったね。」
彼女は、やや俯き加減で私の開け放った扉から外へ出て、後ろも顧みないでいばらの森へ続く一本道を歩き去った。ろくに治療ももてなしもできなかったから引きとめたいと一瞬手を伸ばそうとしたが、彼女の悲愴な背中を見ていると出来なかった。
森に開いた鍵穴のような空が蒼かった。どこかに鍵穴に合うキーを置き去りにして虚しかった。
朝方はやる気まんまんだったのに、その日、私は洗濯を一切せずに無為で過ごした。彼女が運んで手付かずの洗濯物は、魔性を孕んだ森の風に曝されたままだった。
私は、思いつきで彼女にショールを渡したことを後悔した。彼女が、ショールの持ち主だった女性と、自分の妻と同じ道を辿るのではないかと思うと胸が張り切れそうだった。
 
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