陽も出ない早朝から、こんな山の上に人が集まるなんて、物好きだと思う。
 時刻は、朝の4時半。標高2700mもあるここ乗鞍岳の畳平は、7月といっても外套に身を包んでなお震えるような寒さだ。無理もない、畳平までは車で登れるから勘違いしがちだが、他の場所なら山頂に当たるくらいの高所なのだから。
 ライトを点した定期バスが、畳平に入る手前の三叉路に客を下ろして空の状態で料金所を通過する。1台でも驚きなのに、それが時に、何台も連なって。岐阜 県側から、長野県側から。さらに畳平の宿泊施設に泊まっていた人が、懐中電灯で足元を照らしながらそのスポットに移動するのもこの時刻だ。
 多い時になれば70人近くも集まるのではないか。口々に寒い寒いと呟きながら、それでも横並びで彼らが待ち望むのは、乗鞍岳のご来光である。それを拝む ためにわざわざ足を運ぶんだから、本当に物好き。ご来光なんて、他の場所でも体験できるだろうと思うが、そういうものでもないらしい。
 僕ら駐車場係は、彼らのような物好きさんを日の出前にお出迎えするのが仕事だ。前日から麓の事務所に泊まり込んで、2時半くらいには起床。僕らよりも早 く出発したパトロールの確認を待って車で畳平へ移動し、鍵を開けて準備する。お出迎えといっても笑顔で愛想を振りまくわけではなく、はっきり言って何をす るわけでもないが、僕らがそこにいなければ始まらない。僕らは始まりの鍵のようなもの。
 山の天気は変化が激しく、濃霧で視界が閉ざされれば夜の運転は難儀する。風が強いと前屈みになっても前進すらままならない。ご来光の見られる朝はまた放 射冷却でいっそう寒さが堪えるんだ。それでもご来光を求める人の願いは途切れなくて、バスは増えるばかり、人の密度は濃くなるばかり。そして今日も一部の 物好きさんのために鍵を開けてやる。夜明け前から。
 残念ながら、僕はまだスポットからのご来光には出会ったことがない。仕事を放棄すればすぐそばにあるんだけど。これはサボって持ち場を離れようか、なん て考えていたら、それまで姿を隠していた山塊の肩付近からものすごい光量が洩れてきて、邪な気持ちを見透かすような眩しさに目がくらんだ。と同時に、冷え 切った世界に熱も届けられて、一気に気温が上昇した。思わず、感嘆。
 (戦時中、ここ畳平に高高度エンジンを研究する軍事施設があったことなど忘れても良い。畳平はそのために拓かれた、というのが歴史の真実であっても。)
 ご来光が終われば、人々は散会する。一つの目的に縛られることなくばらばらになって、それまで待ち侘びていた太陽など顧みなくなる。人間を大量に輸送してくるバスは、まだ来ない。忙しくなる時間に備えて、ここらで少し、眠っておこう。
 
ペタしてね

今年は梅雨入りも早かったが、梅雨明けも早かった。そのおかげで、下界ではこの時期では異例の気温35度越えを伝える天気予報が連日のように。聞いているだけで身体が蕩けそうだ。アスファルトやガラスの照り返しを考慮すれば、体感的には40度をゆうに超えて街を歩いただけで茹で上がってしまいそうな熱湯列島から逃げ出すことのできない方たちは、気の毒に。こちら、雲上の天界は涼しくてクーラー知らずだ。
と、いうか。
夜明け前の山岳道路を車で上がる、その必要な視界すら容赦なく奪い去ろうとする目の前の濃霧と格闘していれば、連日の猛暑に対する注意喚起を呼びかけるアナウンサーの声などノイズにすぎない。おそらくこの仕事をしていなければ、これだけ分厚くて厄介な霧の海に飛び込んで運転する機会など、まずないだろうな。粘りつくように停滞する濃い霧の中ではセンターラインをガイドにして進まないと忽ちに道路を外れて崖下に転落してしまうような極度の緊張を強いられるから、目的地に辿り着くだけで疲れてしまう。そればかりか、自然の光を失った山岳は夏季でも寒々とした空気にくるまれて、下界の熱湯列島でしか暮らせない人間たちを嘲笑うかのよう。
僕らは、先に上ってきて山岳の様子を確認したパトロールの次に駐車場へ入って、ご来光を求めて早朝からバスに乗り登ってくる観光客のために待機していなければならない。それだけの業務のために前日から麓の事務所に泊り込んで、夜明け前の山岳道路を運転してくる。何もなければ平湯のゲートを3時半に開けて4時半には定期バスが入るから、その前に到着して準備を完了する計算か。間違いなくこの時刻は太陽が出てないし、基本的にゲートを開けてからしか発電機を回す係りが上ってこないので、僕らはかなり高い確率で車中のヒーターくらいしか暖のない寒い環境でじっと待つことになる。
ただでさえ山岳の夜は冷える。それに加えて霧があったり風があったりするととんでもない寒さになって、昼間なら上着を脱ぐくらいの暖かい陽気があっても、始業のその時間だと作業着の上着の他にアウターが欲しい感じ。これまでに何回か夜明け前の山岳を体験してきたが、これほどまでに寒さが厳しいとは思わなくて、陽の出る時間が削られていくこれからに一抹の不安がある。これまでに僕は一度もご来光に出会えていないことも、不安を増幅させる材になっている。
実際にご来光を拝んだ人の話だと、それは本当に感動するくらいの美しさだという。そんな綺麗なご来光と巡り合えれば目が覚めるんだろうな、と思いつつも、今はまだ雲上と下界のあまりの格差に慣れないでいる。下はピーカンでも、畳平では濃霧、視界不良ということはよくあることだ。
山岳は怖い。しかしながら、それ以上に奥深い。少しずつ、乗鞍の魅力に気づきかけた自分が今、ここにいる。

ペタしてね

わははは・・・!!我輩は知る人ぞ知る、魔王岳の「まおー」だ。ん?なんだって?魔王岳に登っても誰も人影を見なかった、だと?そんなはずはない。我輩は、人類の有史以前から勝手に魔王岳に棲みついて「まおー」と名乗ってきたんだから、いないわけがないだろう。よく探してみたまえ。我輩は、ここ乗鞍の主峰である剣が峰なんかよりずっとイケメンだから出会っても眩しすぎて頭がくらくらするのかもな。わははは・・・!!
我輩のことはどうでもよい。さっきまでテレビのニュースを観ていたんだが、どうやらあの富士山が正式に世界遺産に登録されたらしいな。ユネスコの諮問機関から除外を勧告されていた三保の松原を土壇場で取り戻して、完璧な姿で世界遺産の栄光を勝ち取ったんだから、関係者は鼻高々だろうな。また国民にとっても胸が熱い。こどもの頃から「日本一の山」として刷り込まれ、銭湯とかいろんな場所で自然と親しむことの多い富士山は心の山でもあるんだとな。よく言ったもんだ。我輩も、一万年ほど昔に富士山を背景にして遠州の沿岸で水浴びをした経験があるくらいだから、庶民の社交場である銭湯に描かれる題材としてはこれ以上ないだろうな。いくら我輩がイケメンでも、銭湯だけは譲ってやる。もくもくと湧き上がる湯煙や荒々しい波しぶきと似合うのは富士山しかない。我輩だって富士山の凄さについては理解しているつもりだ。
だがな、よく聞け。富士山が日本一であることまではいいが、これが世界の山になるなんてのはいったいどんなまやかしなんだ?成長してもおぼこい、おぼこいと思い込んでいた自分の子が、あるとき白粉やら紅やらで化粧をしてみたら一目惚れするくらいの美人になって、そのままよそに嫁いでいくような感覚か。いや違うな。日本の一番から世界の一番に看板を書き換えることで国境を越えて羨望を集め、一人で悦に浸る富士山を想像するとなんか怖いぞ。そもそも、あれだけ有名な山で何もしなくても観光客が寄り付くのに、今更になって世界遺産にこだわる理由がよく分からん。それは素直に祝福したとしても、だ。白川郷の事例やなんかで世界遺産に登録されることが必ずしも地元に福を招くわけでないことは重々承知しながら、それでも世界を目指す、世界の富士山でなければならないと情熱を燃やす、クールな我輩にはとても共感できないことだ。
我輩のいるこの乗鞍を見ろ。少しくらい観光バスが登ってきて歓声が飛び交うことがあっても、そんなのは濃霧に巻かれるまでの一瞬にすぎん。手付かずの自然とはよく言ったもので、実態としての人が寄り付けない自然を肌で感じる駐車場の静けさは普段から、我輩は寂しいぞ。特に今年はあまりにも観光客が少なすぎて閑散とした駐車場で手持ち無沙汰の関係者をよく見かけるから、いい加減、同情してもいいかと声をかけたいくらい。どうだ、クールだろ?元から収容人数が限られるし観光面でも登山の面でも哲学が異なるから同列で論じることはできんが、乗鞍の場合は周回遅れでも一向に気にしてないようなのんびりムード。そこが好きなところであり、嫌いなところでもある。まあ、もう少し、あと100台ほどバスが登ってきてくれれば文句はないわな。
対して、今の富士山のホットぶりはどうだ。世界遺産に登録もされていないうちから山でも麓でも盛り上がりやがって、何故だか人がわんさか、聞けば前夜祭とかなんとかって、ただ自分が酒を飲みたいだけにしか見えないのにそれが共感の連鎖を生むなんて理不尽まであって、富士山は噴火寸前だ。忘れてはいけないぞ、富士山は涼やかな見た目に反して火山なんだから。ここ乗鞍も。事前の報道を覆して本会議で富士山の登録が見送りになれば、それこそ富士山が噴火して手のつけられない怒りを見せただろうけどそんなことはなく、逆に最高の形で祝福の今日を迎えられたから人々の歓喜は最高潮、やれ歌え、やれ踊れの号令が遠く離れた乗鞍まで聞こえてきそう。羨ましい、じゃなくてだな。我輩の知らないところで勝手に盛り上がって、人々の熱で今にも爆発しそうなホットな富士山に物申す!!
ずるいぞ、自分だけ観光客を独占して。これからは世界を相手にするんだから、お前は遠慮して少しくらい観光客を乗鞍に回せよ。あ、外人はノーサンキューな。ここ乗鞍はこれから富士山に代わって日本人の心の山と呼ばれるようになって、詩歌の題材になったり、銭湯の背景になったりするのが、我輩の密かな野望なんだ。日本の文化とか美意識もよく分からん外人が銭湯の湯船に浸かってペイントの乗鞍を眺めて寛ぐ光景なんて、絶対にあってはならん。乗鞍は日本の山でいい。世界遺産なんて、余計なレッテルはいらん。クールで謙虚な我輩がこう言うんだから、今すぐに実行するように。以上!
我輩、魔王岳のまおーは、気がつけばお前の背後にいるかもしれん。以降、お見知りおきを。わははは・・・!!

ペタしてね

堀から出たホリエモンは丸くなっていたけど、まだ耳がある。
「未来のネコ型ロボットであるドラ○もんは何をしても生物にはなれません。なぜか?」なんて下世話な耳は聞き流せ。
代わりに「未来のホリエモンは英雄になれません。悪役にもなれません。なぜか?」という痛い耳が出題される予感。
その耳、削ぎ落とせ、と悪魔が囁く。削ぎ落として、ホリエモンを量産するんだ。
一家に一台、ホリエモン。そんな時代が来るような、来ないような。
 
(絶対に高級品ではないよね。最初は奇をてらって流行っても、いつか足蹴にされてゴミ箱行きになるのがオチか。)

ペタしてね

あまりにも早すぎた台風3号。接近もしないうちからマスコミが騒ぐからかなり用心して危険日に備えたけれど、蓋を開けてみれば大きく列島から外れた上に台風でさえもなくなって。この地方に最も近づくはずだったその日、下界は朝から晴れて気温が上がり、天界まで登る山岳道路からの眺望はこれまでにないくらいに素晴らしいものとなった。
ちなみに山岳道路の行き止まりにある畳平駐車場はその日、最初が晴れ。少ししたらガスが濃くなってきて、ほとんど何も見えない状態が終日続いた。麓の煮えるような暑気を多分に孕んでいたらしくガスが重なって濃縮された只中に身を置けばなんとなく長袖が鬱陶しくなるような微妙な暑さで、ほんの数刻霧が散って日差しが届くと急に肌寒くなる、何を着ればいいのか分からないおかしな一日だった。下界で想像するのとは全く異なる気候が山岳に待つのはいつものことだが台風3号の見えざる騒擾に掻き回されたその日は、特に。
観光客が期待する山頂付近からの眺めは濃霧のためにほぼ絶望的で、運悪くこんな気候の時に来た地元の中学生は気の毒だった。が、ガスに閉ざされていたのは山頂付近だけ。山岳道路を下って戻る道すがら、視界に飛び込んできた下界を見下ろす景色は普段では絶対に見せない表情で、誰もが感嘆の声を上げたに違いない。なにせ、積乱雲と思しき雲の塊と同じ目線にいた。緑の濃くなった山々が鮮明に見えて夏の雲が早くも空を彩っていた。
神々しい。帰りの車中でそう感じたのは、大袈裟な表現ではない。そして、なんて贅沢な体験なのだろう。
積乱雲の下にはおそらく夕立がある。下界では晴れから急転した夕立の熱い雨から一時退避するしかなく、人々の狼狽とか夕立が去った後の安堵まで含めた夕立の雲を俯瞰できるとは思わなかった。上空でそれが何かの層にぶつかって横方向へ延び広がって皿状になった光景を観察できるなんて思わなかった。全ては山へ上がって仕事しようという発想がもたらした役得だ。山岳道路はどうしてもカーブが多くてのろのろ運転になってしまうから、後部座席からの車窓の風景、思う存分に堪能した。
山岳道路はもちろん終わりがある。ゲートを通過して峠を下って接続された一般国道に入ればそこはもう下界、高山でも日中30度を越したとか越さないとかの炎獄の痕跡は午後5時過ぎのその時間でも残っていた。あるはずの夕立の雲は全く別の谷筋だからそこからは影すらも発見できない。辛うじて夏雲は見られてもやることが多すぎてそれどころでなく、おまけに敷き詰められた湿気のせいで正常な思考力を狂わせられがちの下界ではわざわざ首を捻じ曲げて空を振り返ったりしない。
確かに大地は繋がっているのに。毎日のように登る天界でそれを確認して一旦は思いを胸にしまうはずなのに、山岳道路を下って下界の人になるとすっかり忘れている。おかしなものだ。

ペタしてね

皆さん、お揃いで。よく来てくださいました。大型バスを3台も連ねて、大変ありがたいことです。
皆さんご存知の通り、今年、この地方は例年より11日も早く梅雨入りしました。それは里だけでなく、山岳とて同じこと。たくさんの観光客を受け入れてきた景色の美しいこの山頂駐車場は、今しばらく、雨と風が猛威を振るって人の接近を寄せ付けなくなります。
そう、現在、バスの外でうねりを上げながら絶えず車体を揺らし続ける折からの風雨は、決して虚構などではありません。残念ながら、これが現実なのです。下界と違って高所にあるこの駐車場では霧状に拡散する雨も、視界を遮る濃霧も珍しいものではなく、皆さんの見ている風景こそがこの山岳の本来の姿といえるのです。
それにしても皆さんはお若いですね。え?中学生ですか。山脈を挟んだ隣の県から。ほう、社会見学。身近な自然を体験させるためにこの場所を選定されたとは、光栄な話です。が、この雨のために素晴らしい眺望は望めません。はてさて、皆さんはこの場所でどう過ごすのですか?
参考までに申しますと、今日これまでに駐車場へ入った観光バスは、トイレや売店くらいの用事でさっと帰っていきました。山裾にまだ残雪があるようなこの時期だと高山植物の観察もできませんからね。早めに引き返すのが賢明でしょう。
とはいっても登ってくるだけで30分以上はかかる山岳道路を引き返すとなると、どうしてもあれが問題になってしまうんですよね。不思議なもので、狭い座席に押し込められていたりすると余計に。人間の生理には敵いません。それはお若い皆さんにしても同じことで、いくら雨がひどくてもやっぱり油圧式のドアを開きましたね。そこからわらわらと出現して、おのおのに雨を避ける工夫をしてダッシュで向かうのは、手近なところにあるトイレです。
男子も。女子も。引率の教師も。バスの運転手も。大勢の観光客を収容するために建設された広大な駐車場はこの雨のために売店も含めてとても閑散としているのに、敷地の片隅に置き忘れたような料金所裏のそのトイレに人が押し寄せてこんなに賑わうとは思いもよりませんでした。まったくありがたいことです。
水の枯渇したこの時期はトイレの手洗い水にさえ不便する始末で、わざわざタンクに汲み置いた水を使ってもらうしかないから、手を洗うのにどうしても雨で濡れてしまうこういう天気の日はお客さんに申し訳ないのです。予定していた行事を行うことができず、山岳の心を洗うような風景に出会うこともできず、挙句の果てには風邪を心配するくらいに身体を濡らしてしまって。散々な社会見学になってしまいました。
・・・いえいえ、そうでもありません、ですか?気候が不安定なために雨の湿気が奥の方まで入り込んでくるトイレなんてこんな山岳でしか体験できないし、晴れて動きやすい日ばかりでなく雨が降って何も見えずそこにあるはずの雄大な景色に出会えなかった痛恨の思いもまた、生徒たちには成長の糧になるのです、と。ふむ。
そうですね。よく考えてみれば悪天候になって身動きが取れなくなっても自然と人が求めて参集するのは、実はトイレなんですよね。それも設備の整った水洗式に慣れた現代人にしてみれば悪臭の漂う昔ながらのぼっとん式なんて、顔を背けたくなる代物。それでも人はここに集まってそして散るのですからね。トイレは、ある意味、人間が一番素直になれる場所といえるでしょう。
山岳の、とても不便なトイレにお世話になって帰れるというのは、本当は素晴らしいことなんですね。雪遊びができなくても、山登りができなくても、売店で土産物を眺められなくても、この山岳でトイレに辿り着いただけで十分。身体の要求に応じて排泄を済ませばそこにはある種のカタルシスというか達成感のようなものまであって。
生徒の皆さんは幸せだと思います。いい社会見学になりました。あまりの雨のためにバスはトイレに寄っただけで引き返すようですが、どうか、ご無事に下山してください。
そして、大人になっても今日のことはどうか恨まないでください。スタッフからのお願いでした。
 

ペタしてね

天界という場所は、空気が澄んでいる。晴れて風がないなら、下界よりもこちらの方が断然過ごしやすい。眺めもいいし、ありのままの自然が保存されてるし、最高!・・・と言いたいところだが。天界の水事情だけは最悪だ。
なにせ、トイレで使う水がない。飲料水など、もってのほか。食堂などで調理に用いられる水は全て山麓から汲み上げたものを使っていて、天界で直接採取したものでないから味が劣るのは必然といえるだろう。必要最低限の水しか提供できない、いわば山岳砂漠のようなこの天界はやはり人が暮らすには厳しい世界である。
何を言うんだ、水ならあるじゃないか、たくさん。そう反論する向きもあるのではないかと思えるが、何事も目で見えるものだけで判断してはいけない。
確かに水はある。正確には水が変化した「雪」という形で、畳平の周辺をはじめ乗鞍の至る所に未だに分厚い雪渓を形作っている。が、これらの堆積した雪はそのままでは水として利用できないし、仮に一瞬で融けて全てが水に還ったとしても、すぐに低所へ流れ下る水を確保して継続的に利用可能な形で留め置くのは至難の業だ。特に国立公園に指定されている乗鞍の場合は最低限の人工施設しか許可されないから、今後も貯水槽のようなものが建設されることはないだろう。
唯一、現地で調達できる水というものは、畳平からやや登ったところにある不消ヶ池(きえずいけ)なる水溜りからホースで引っ張ってくるものだけだ。畳平の開通前に、関係者の手で雪の層を掘削したり、重たいホースを運び上げてなんとか終点まで繋いできた。あとは天水が豊富に降り注ぐのを待つばかりのはず。なのに、我々の努力に対して成果が弱いのではないかと不安になるのは、傾斜を持った雪渓に這わせてきた黒いホースの線が俯瞰するととても細すぎてその送水量に疑問を抱くから。観光客がどっと押し寄せる繁忙期にわざわざ給水車を出して人を使うよりはまし、くらいの浅い考えしかないのでは、とさえ思える。例えそうだったとしても、直接水の恩恵に預かる身としては頗るありがたるしかない。それが、天界の現状だ。
どうしてもとなれば下界より高い金を払って自販機で購入する、という手はあるけどバカバカしいから控えている。やはり天界では水は自分で用意するのが最善。限られた水をタンクに入れて手洗い用に提供している屋外のトイレなど、この山岳砂漠では破格のサービスだと思いなさい。
山岳のルールが厳しくなって、水も、食料も、ついでに紙も自前で用意しなければいけない環境になれば、誰だって辟易する。下界から隔絶された特殊な体験をしたいといってもそこまではまず求めてない。山が遠くなる。そうなって損をするのは、結局は観光客なんだと考えれば実行なんて難しくないだろう。
水を節約しなさい。感謝しなさい。そうした綺麗な心があっての、美しい乗鞍だ。

ペタしてね
そこが天界と呼ぶには、少しばかり語弊がある。が、僕にとってはれっきとした天界だ。我々が何気ない日常を送る下界、人界とは何もかもが異なるという意味で。
車で登れる地点としては日本一高所だと言われるそこに降り立てば、たいていの観光客が思わぬ寒さに身をすくめる光景は、もう何度も目撃してきた。そう、寒いのだ。そこは。今の時期なら下界では夏の装いでもおかしくないくらいの気温があるから油断して向かうと、しまったアウターが必要だったなんて経験を既にしているほどのそこには基本的に夏が来ない。常に一つ前の季節を体験することになると考えると分かりやすく、下界が真夏なら天ではせいぜい暖かい春、下界が冬なら天では厳冬だ。
標高2700mもあるそこはまた、空気が薄い。この地球を囲う空気の層が実は均一でなく、地球の重力を受けて外側から内側に向けてとんでもない圧力が働いていることを、普段誰が意識するだろう。だが人の定住できないほどの高所であるそこでは、様々な現象から空気の性質を身体で知ることになる。下界で空気を封入したポテチの袋が高所ではパンパンに膨らむのはよく知られるところだが、気をつけないとカップ麺の上蓋がシールの内側で剥がれることがあるので注意したい。さらにカップ麺に注ぐお湯を沸かしても、気圧の関係から沸点が100度に達しないために、麺をほぐすのに十分でない場合もある。
まあカップ麺に関してはなるべく山へ持ち込まないようにすれば済むが、こちらは人間の力ではどうしようもない。高山病だ。山登りの最中に全身へ供給する酸素が不足して体調を崩すのがその症状だとばかり思っていたら、少し違っていた。2700m地点にある勤務地から下界へ帰る途中に、いきなり耳の奥がキーンと鳴って、物音が聞こえ辛くなる体験はこれまで毎日。実はこれも高山病の一種だそうだ。そう聞いて、なんか納得した。我々は下界で何気なく生きながら見えざる力に押し付けられるような息苦しさを感じることがあるが、その正体の一つはこれだったんだ。空気の持つ重力に押し潰されそうになりながらも、過剰に濃縮された酸素を取り込んで無理に心臓を動かし続ける。それよりも希薄な酸素を大事にして圧力の少ないそこで伸び伸びとする方が素直なのかもしれない、とは思う。ある種の開放感があるのは間違いないことで、それが山の、乗鞍の魅力なんだろう。
これまで勤務して、気がついた。下界では考えられないくらい天で寒さに震え、強風に煽られることがあっても、この地に降り立つ人は穏やかだ。少なくとも人命に関わる事態以外ではいきり立つことがバカバカしいと思えるような心境の変化があると考えるべきなのだろう。心が落ち着くというか、仙人になるというか。
下界は少し前までの寒さが嘘のような、やや湿気をまといだした重たい暑さと面倒くさいと叫びたくなる余計な仕事の数々。天界はそれよりは遥かにましだ。時には事件が起こって拘束されることもあるけれど、後になれば笑い話で済んでいくだけのことだ。天界は未だ大きな騒擾はなく、毎日が穏やかに過ぎていく。
天界にはどこか死後の世界を想起させる響きもあるけれど、それもまた良し。その場所の開放感には特別なものがある。厳冬期は風雪に閉ざされながらも短い夏には多くの高山植物が我先にと花開かせて命を輝かせる。こんな自然の色濃い場所で静かに命を閉ざすのなら、それもまた本望だ。

ペタしてね

山岳で働けば、遭難できる。簡単に。
悪天候を待つ必要なんて、ない。はぐれればいい。単独行動を取ればいい。
誰にも分からないように忍び足で勤務中にどこか手頃な山に登ってみて、思う存分、山岳を楽しむがいい。心の靄をも晴らすような頂からの眺望は、山好きでなくても山を好きになる要素が満載さ。酔いしれる。酷使したはずの身体が疲労に疼くのもまた心地よく感じられて、なんとなく急くように帰りの足が軽い。そうやってしれっと帰り着いてみれば、売店やらバスターミナルの明かりが消滅した薄闇の駐車場にはもう誰もいなくなって、自分の下山する手段が絶たれて、嫌でも遭難したと認識する。いつの間にか強まってきた山の風がとても冷えて、鍵のかかった建物の陰で小さくなりながら自分を置いていった人たちを呪ってやる。電気がなくて携帯の電波さえ飛ばないそこは、人間のいた痕跡があるだけのただの山だ。駐車場だなんて、思うべからず。突如本性を表わした険しい山岳の表情を前に立ちすくむがいい。これまでかと、人間の驕りを悔やむがいい。
誰だって、いくら仲間がはぐれていても簡単に人の命など飲み込んでしまう山岳に居残ってまで捜索したくなど、ない。そりゃあ心配する気持ちはあっても、実際のところは我が身が一番大事なんだから。自分が死にたくないから、遭難したくたいから助けを求める、で正解。しかしながら助けを求めてもそこに人がいなければ意味はないし、またそこにいた人がわざと放置すれば孤立してしまうことがあるのも現実であって、山岳は下界よりも人間を意識する場所である。
勤務が終わって車で事務所まで戻ると、ほっとする。今日も遭難しなかった。見放されなかった。正常な人の心を壊さなかった。
山岳で働くのは、命懸けである。色々な意味で。

ペタしてね

タグ

都会を目指していた。あの街に憧れていた。挑んでみた。挫折した。
そんな苦い記憶はありつつも気持ちは若い。よせばいいのに、再挑戦。都会を目指すくらいの思想は自由じゃないかと、自分に言い訳して。
確かに通っていたのは、街。自分の生まれたこの村から見れば、コンビニの密度では間違いなく日本で有数の都会なはずの街を目指して頑張っていた。それなのに。あれ、おかしいな。この連休が明ければ、僕は乗鞍の山麓で働くことになる。
僕は、ずっと街を志向してそこを目指していたのに、以前いたところよりもさらに山。働いてもいないうちから高山病の心配をするようなそこは、どう考えても山だ。誰がどう見ても特別な装備と特別な思いでしか到達できない山のそこ、どうして自分の職場になった・・・?
僕という人間。別に山が好き、ということはない。山と聞いて思い浮かぶのは井上靖の「氷壁」とそのドラマ版くらいか。むざむざ自ら命を落としにいくような「氷壁」の世界のような本格的な登山をするわけではないけど、僕が勤務することになる乗鞍の山麓でも環境は十分に厳しいらしいぞ。元来引きこもり属性でブログを書くみたいな暗い趣味しかない僕には、かなりハードルの高い話。それだけに、余計、自分が不思議。
とりあえずこれまでに講習は済んで、後は実際の勤務を待つばかり。その講習の席で出会ったのは、冬のスキー場で嫌というほど顔を合わせてきた爺さん連中ばかり。かなりあくの強いその面々と肩を並べるということは、多分そうなのだろうとなんとなく想像はしていたけれど、
「わざわざ山で働こうなんて、あなたたちは十分に変態です。」
という責任者の方の言葉を聞いて、完全に吹っ切れた。
そうだよな、変態だよ。華やかな街を目指していたのにいつの間にか、山にいる。それも天候が不安定で、過去には実際に熊の襲撃に遭って何人も負傷したという安全の保障されない、まさに山岳。そんな場所に挑んでいくなんて、僕は変態以外の何人でもない。
変態だから、街ではなくて、山なのか。そうなのか。なんとなく、納得。
こうなれば山へ踏み込んだついでにもっと奥山に進んでいって、できることなく定住してやろうか。冬山で思いがけず登山者と遭遇すれば、雪男と呼ばれようか。それもいいかもね。雪男として生きて、最期は激しい吹雪の中で力尽きたりして。あなたが死ぬなら山か街かと問われれば、断然、山なんだよね。なぜか。
まあ、山で死ぬ気はさらさらないけどさ。今シーズン勤務する山は命を落とす危険も十分にある場所だってことで。無事の帰還を祈ってよ。
山か街かの選択は山しか選択のなかった僕に、何かしらのエールを送ってよ。

ペタしてね