9月15日(JR東海を退職した日) | ミスターアップルパイのblog・「パイは食べ物です!」
9月15日は、俺に取りまして、最も忘れられない日です。


それは、JR東海を退職した日だからです。


俺は17年前(1992年)の3月に高校を卒業後、富山県から名古屋へ上京して、同年の4月にJR東海へ入社しました。入社当初は、千種区に在る、同社の研修センターへ入所して、同所で住み込みしながら、二ヶ月間の新入社員研修を受けていました。研修はクラス毎に分かれて受けていました。


しかし、この頃から既にボロボロな俺でした。同期入社(特に同クラス)との人間関係が上手く行きませんでした。俺が在籍していたクラスは、意外にも、鉄道が好きな人は殆ど居ませんでした。鉄道が好きで上京した俺を、白い眼で見て来たり、「オタク!」・「田舎者!」と言われる事も日常茶飯事でした。この言葉が、自分自身の心を突き刺されていました。


入社から僅か一ヶ月近くで、「もう、辞めたい-。」と、俺は考えていました。同所の上司に、退職の意思を伝えていましたが、上司の方々からの説得に依り、うんざりとしていた俺も、なんとか研修を終えました。


研修終了日からの数日前に、勤務箇所の配属先が発表されて、辞令の交付を受けました。


俺の配属先は、名古屋駅でした。


これに伴い、居住地も移る事になりました。名古屋駅から徒歩で約15分の所に在る、同社の独身寮へ引っ越しました。そして、生まれて初めての、本格的な一人暮らしも始まりました。


同年の6月1日より、名古屋駅で勤務し始めました。在来線や新幹線の改札口で、改札業務に携わりました。尚、主に在来線を担当していました。今では全て自動改札に変わりましたが、当時は在来線の中央口と広小路口のみ、自動改札が設置されていました。


鉄道会社での、俺の本当の仕事が始まり、その頃の俺は緊張しつつ、とても新鮮な気持ちでした。泊まり掛けの勤務が中心で、それまでの生活環境とも異なり、悪戦苦闘しながらも、仕事を覚える事に必死な俺でした。


ところが、それも、つかの間の事でした。同期との人間関係は、修復する事も無く、こじれたままでした。加えて、お客様とのトラブルが絶えませんでした。勤務の度に、多くの苦情を受け付ける事ばかりでした。因みに、俺はJR東海へ入社するまで、接客の経験が全く有りませんでした。その為、接客の基本すら分からない俺でした。


俺は、満足に仕事を覚えられず、段々、仕事に手が着かなくなって行きました。気疲れする事が多くなりました。日増しに、気持ちが落ち着かなくなり、その次の勤務の事を思うと、眠れなくなっていました。


すっかり、全てに嫌気が射しました。更に気が付くと、俺は精神的に体を壊していました。


同年の7月中旬頃から、退職する事を、考え始めていました。名古屋駅の上司(助役)と相談していました。何度も相談していました。


退職する事に、迷いも有りましたが、結局、退職を決意しました。


同年の8月31日に、退職願を提出しました。


同日に退職願を提出しましたが、その時の俺には、年次有給休暇が残っておりました。会社側は、全ての有給休暇を使い切った上で、退職の措置を取って下さいまして、9月15日が、俺の退職日と決まりました。俺の本来の勤務日程は、翌日の9月1日より、改札から出札へ異動する予定でした。しかし、出札業務には就きませんでした。


退職日までの俺は、自分の荷物を纏めて、引っ越し準備に追われていたり、次の身の振り方を考えていました。



そして、9月15日が来ました。俺は、この日でJR東海を退職しました。


そして、富山県へ帰りました。


JR東海での勤続期間は、僅か5ヶ月半、俺は半年足らずで、退職しました。


呆気ない幕切れでした。



思えば、この前年(1991年)の9月15~16日に、入社試験を受ける為、名古屋へ行きました。


幼少期より鉄道が好きで、運転士か車掌になる夢を抱き、目標に向かい、希望を実現させようとしていた俺でした。


しかし、入社試験を受けに行った日の翌年に、こういう形で終わるとは、予期せぬ事に、自分自身でも、思いも寄らない結果となりました。



JR東海を退職した事は、俺に取りまして、大きな決断でした。


今年で、退職日から17年が経過しました。



この17年の間で、俺は鉄道運転士になる夢は捨て切れませんでしたが、二度と叶う事は有りませんでした。


今は、俺の他に、鉄道運転士になる夢を抱く全ての人達に、夢を託す事しか出来なくなりましたが、「絶対に、夢を捨てないで欲しい。絶対に、夢を諦めないで欲しい。」と、切に願う俺です。



もしも、可能であれば、俺はJR東海の制服を着て、仕事をしている姿を、全ての人達に見せたいです。


JR東海では、辛くて苦しい事ばかりでした。しかし、JR東海で仕事をしていた俺が、今までの人生で、一番輝いていた俺でした。



JR東海での思い出話は尽きなくて、これ以上、話しますとキリが無くなりそうです。




「思い出は思い出として、大切に仕舞っておきたい。」と、思う俺です。







以上で、今日の俺からでした。