◉歴史的事実としての天孫降臨

 「天孫降臨(てんそんこうりん)」とは一般的に、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が神勅を受け葦原の中つ国を治めるため、高天原から筑紫の日向の襲(熊襲)の高千穂へ天降ることを指しますが、実際はどうなのでしょう。

 「天孫降臨」が行われたであろう縄文時代中期は、関東・東北に集中していた人口が南下して西に向かい、西日本の人口が増加しました。また人口増加には海外からの移民、帰化人が入ってきたことも影響しているようです。つまりこの時期、関西(西日本)という地域が重要になってきたということが考えられます。

 帰化人勢力が西日本で勢力を強めてくると、東日本にいた日高見国の統治者たちは西日本の統一の必要性を考えはじめるのは当然でしょう。それを実行したのが「天孫降臨」だったと考えられます。もっと具体的に考察していきましょう。

 

 田中英道先生によると、天孫降臨」は日高見国の中心である鹿島から九州の鹿児島へ船で移動していくことがはじまりであったとおっしゃられています。

 

 「天孫降臨」というと、天から地上に降りてくるといったようなフィクションとして考えられますが、そうではなく高天原系の統治者たちが瓊瓊杵尊に命じ、九州から西半分の国々を統一しようとした大きな動きであり、それによって出雲系の統治者たちは高天原系に国を譲ることとなります。

 

 またこの瓊瓊杵尊の九州への天孫降臨より前に、奈良の大和が高天原系・日高見国系の人々によって占領されていました。それが饒速日命(ニギハヤヒノミコト)による天孫降臨です。この饒速日命も高天原系・日高見国系であると考えられます。天磐船(あまのいわふね)に乗ってきたと伝えられる饒速日命を祀る神社は千葉・茨城に25社、伊勢には約40社近くあるそうです。 

 饒速日命は鹿島(茨城)を発ち、船で伊勢(三重)に向かい、伊勢から大和(奈良)に入って天孫降臨したと考えられます。

 

 このように神社が後付けする形で、瓊瓊杵尊の天孫降臨より前に天孫降臨し、大和に入った饒速日命、つまり高天原系・日高見国系の人たちがいたことの証明であるという考え方です。

 

 ちなみに海と天はどちらも「あま」と呼びます。海をみると、水平線で天と重なって見えますが、当時の人たちが「海と天はつながっている」と考えたとしてもおかしくはないと思います。つまり、「天」という言葉を使いながら、海から向かう人たちがいたことも十分考えられるのです。そのような、日本における平行移動を、垂直的に考え、神格化したのが「天孫降臨」ではないかという考察です。

 

 神話で語る「天孫降臨」は荒唐無稽なフィクションだととらえられますが、それが現実の歴史にあったことの記憶の神格化、神話化ともとらえられます。その根底には、神話と歴史の語り部たちの、共通した民族の歴史への想いがあったのではないでしょうか。

 

 日本は古来、島国という地政学的な有利さを生かした、統一した国家観があったと考えられます。つまり、太陽神を中心とした祭祀国家だったと推測されるのです。

 日高見国は高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の時代であり、そのあと農耕が生業として加わることによって天照大御神(アマテラスオオミカミ)統治時代がやってきました。外来からの移民が入り、須佐之男命(スサノオノミコト)に象徴される外来信徒の葛藤が生じます。さらにその子孫である大国主命(オオクニヌシノミコト)が山陰地方を中心として統治するようになりました。

 しかし、関東を本拠とする高天原系が「国譲り」を迫り、そのとき鹿島、香取の神々が実行部隊として出雲を象徴とする関西に進出し「国譲り」

を成功させました。

 その中心に、鹿島いた中臣氏、香取にいた物部氏の勢力がいたのです。そしてすでに物部氏の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が大和地方に「天孫降臨」して統治していましたが、やがて九州、中国地方の人口が多くなるにつれて、再統治の必要が起こり、改めて瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が鹿児島へ、船団として送られました。それが二度目の「天孫降臨」となったのです。

 

つづく