◉太陽が高く昇るところにあった「高天原(たかまがはら)」と「日高見国(ひだかみこく)の存在」

 縄文時代遺跡の出土率は全体の95%以上といわれるほど圧倒的に関東・東北に多く見られ千葉・東京には多くの貝塚があり、土器・土偶も数多く出土していることから、縄文時代の日本の文化の中心は日本列島の西ではなく、東、関東や東北にあったことが考えられます。

 これまで、「縄文時代の人々は竪穴式住居で生活をしていた」とされ、7世紀から8世紀にかけて書かれた「古事記」「日本書紀」(記紀)についても神話の世界の話で、いわば非現実的なフィクションにすぎず、戦後になると「天武天皇、持統天皇・藤原家によって、高天原に天皇の祖先である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨(てんそんこうりん)される前に多くの神々がいたと書くことで、天皇家の正当性を示す根拠とするために捏造されたもの」といわれてきました。

 ここではそういった固定概念を抜きにし、記紀に記されている高天原神話は単なる幻想や作り話ではなく、縄文・弥生時代の記憶を元に作られた現実的な話と捉えて考察して見ましょう。

 まずその根拠としてあげられている「記紀」に書かれた一文等を箇条書きにしそれぞれ示します。

(現代語訳にて記載し原文は割愛しています)

 

・「日本書紀」:景行天皇27年の記事

東夷(とうい)の中、日高見国あり、その国の男女、並びに*椎結文身(かみをあげみをもとうげ)て、人となり勇敢なり、これ総て蝦夷という

 

・「日本書紀」:日本武尊(やまとたけるのみこと)の陸奥の戦い後の描写

蝦夷すでに平らぎ、日高見国より帰り、西南常陸(ひたち)を経て、甲斐国にいたる

 

・「釈日本紀」:鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書の一文より

第36代孝徳天皇の御世、つまり大化の改新の時代に常陸国(現在の茨城県)に新しい行政区として信太郡(しだぐん)がおかれたと「風土記常陸国編」に残っているがこの土地がもと日高見国と呼ばれた地域である

 

・ 平安時代の「延喜式(えんぎしき)」に定められた祝詞(のりと)「大祓詞(おおはらえのことば)」には日本全体を示す「大倭日高見国

(やまとひだかみこく)」という言葉

 

・ 中国の歴史書「旧唐書」にも「大倭日高見国(やまとひだかみこく)」という言葉がさかんに使われている

 

 これまで「大倭日高見国」は「大倭」の下に書かれていることから奈良の大和を示すのではないかと考えられています。しかしそうではなく、日本の東半分に日高見国という別の国があったと思われるというのです。日高見国とは「太陽が昇るところを見る国」です。つまり奈良とは考えづらく、東の関東・東北を想定することで「太陽が高く昇るところにある国だから日高見国」という名がついたと理解できるというものです。その物的根拠を下記に記します。

 

・「延喜式」の「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」から江戸時代まで天皇家と関係する神宮は以下3つしかなかったことがわかります。

 

 ●大神宮(伊勢神宮内宮) 三重県伊勢市 https://www.isejingu.or.jp/

 ●鹿島神宮        茨城県鹿嶋市 http://kashimajingu.jp/

 ●香取神宮        千葉県香取市 https://katori-jingu.or.jp/

 

 

 3つのうち2つが双方約20キロ圏内に位置しており、さらにこの2つの神宮は伊勢神宮より遥か昔に創建されていることがあきらかになっていますし、

また今でも鹿島神宮の周辺には「高天原」という地名が3つもあります。天皇家と関係する2つの宮が1つの国(県)にあるということこそ、そこに「日高見国」があったということであり、そこに天皇家の故郷、すなわち「高天原」があったとすると、縄文遺跡、土器・土偶の出土が関東に圧倒的に多いことも相まって、当時、関東を中心とした緩やかな氏族連合国家が東日本に広がり、それが鹿島・香取といった2つの神宮を中心とする祭祀国・日高見国として存在していたと十分に予想することはできないでしょうか?

 

 

 

◉東日本に広がった民俗連合国家(古事記上巻を読み解く)

 記紀神話によると、高天原には最初に「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」と「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)」と「神産巣日神(カミムスビノカミ)」という三柱の神が出てきます。日高見国は太陽信仰の国だと考えられますが、「古事記」に出てくる神々の発生の経緯を読むと、まず天地があり、その混沌の中から三人の独立した神が出てきたと書かれています。つまり、まず天と地という太陽を含めた自然全体があったということが読み取れます。

 最初に現れた天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は太陽神、自然神であり、中心の神です。この天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は日高見国最初の頭首であると考えられます。そのあとに高御産巣日神(タカミムスビノカミ)と神産巣日神(カミムスビノカミ)という、「ムスビ」と名のつく二神が現れました。この「ムスビ」には人々を結ぶ、統一するという意味があります。特に2番目に現れた高御産巣日神(タカミムスビノカミ)は日高見(ヒダカミ)と非常に音が似ているところから日高見国を統率した氏族の系譜として見ることができます。高御産巣日神(タカミムスビノカミ)が日高見国の統治者として統一して言ったのでしょう。つまり日本における神の名前は、何代かを経て長者として認識された家の「家系」を神の名前に託して、天地創造の物語に当てはめて読んだものという考え方です。

 例えば天照大神(アマテラスオオミカミ)は時間的にとらえるとかなり長い間、神話に登場し続けます。つまり「アマテラス」というのは非常に長く続いている母系制の家系で、その系統の人々を皆「アマテラス」という「家系」として読んだという考え方です。

 

 また地域によって神は違う名前で呼ばれています。例えば、大国主命(オオクニヌシノミコト)は奈良県の三輪山では大物主(オオモノヌシ)という名前で呼ばれ、現在の兵庫県にあたる播磨国の風土記では大己貴(オオナムチ)として登場します。この大己貴は日本書紀では大穴牟遅(オオナムチ)です。

 同じ家系の人々の統治が続けば、地域の人々はその家系の人々を例えばオオクニヌシという名で呼んで一体化し、尊び、畏れたのでしょう。それぞれの神はそれぞれの役割を持つ「家系」として存在していたと考えられます。

 

 高御産巣日神は、天照大神の話にもでできますし、さらに天孫降臨の際には高木神の名ででできます。天孫降臨をする瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、天照大神の子と高御産巣日神の娘の間に生まれた子(2神の孫)です。これは高御産巣日神がずっと一つの「家系」として続いていたことを示しているといえます。

 そうした「家系」を持つ氏族は、当時ほぼ関東にいたと考えられ、そのため、のちに日高見国が高天原として認識されることになり、氏族として存在していた人たちの名が神の名前に反映され、日本の神話が作られていったのではないかという考え方です。

 

以上のことから、

 日高見国から高御産巣日神が現れ、のちに天照大神ら天津神(あまつかみ)たちが活動の場とする「高天原」とは関東を指しているのではないかと考えられます。つまり、日本の歴史は高天原=日高見国のある関東からはじまったと考察できます。

 

つづく