rain






私は、数日前に見つけた2枚の古いIDを指の間で

もてあそびながら、窓際に立って外の雨を眺めていた。


この街では、一度として雨がやんだことがない。

赤みを帯びた生ぬるい液体が、絶え間なく降り注いでいる。

強くなったり、弱くなったりはするが、止むということがない。



ただの雨なら問題はないのだが、ここの雨には変わった性質がある。

人々の記憶を少しずつ洗い流してしまうのだ。いつからなのかは知らない。

何せあまり昔のことは覚えていられないのだ。雨の降りが強いときなど

つい昨日のことさえ思い出せない。しばらく鏡を見ないでいると、自分の

顔を思い浮かべることも難しくなる。




自分がどこから来て、いつここに住み着いたのか

そんな事さえ私には分からない。全ては洗い流されてしまったからだ。

だから、この町に住む者はみんな過去を持たないということになる。


誰もそのことを追求しようとはしない。みんな、薄々と分かっているのだ。

自分が、かつて忘れたいことがあって、この街に来たのだということを。

それを思い出してしまえば自分が生きていけないだろうということも

そして、昨日を忘れながら生きるが一番楽なのだということも・・・


時折、見覚えのない場景が不意に浮かんで、胸を金やすりで

削り取られるような、鋭い痛みに襲われることがある。




緩やかなカーブを描く鉄道のレール


その上をキシキシと音を立てながら進む古ぼけた貨車


もう忘れてしまっていた青空に真っ白な雲


近代的で大きな建物


その中で働く、白衣姿の人々


私はそこで、いくつもの機械を操作している。


何かの実験だろうか。


隣に誰かいる・・・誰?



痛みはどんどんひどくなり、やがて耐えがたい激痛になる。

そんなときは、外に出てレインコートを脱いで、直接雨に当たる。

空を見上げてじっと、生ぬるい雨粒が顔ではじけるのを感じる。

そうすると、次々と浮かんでくるイメージが薄れ、痛みも消えて行くのだ。


ずっとこうして暮らしていくのだと思っていた・・・


だが数日前、物置になっているクローゼットを整理していて

例の二枚のIDタグを見つけてしまった。個人名と所属

それに上半身の写真が入っている。一枚は男のもので

もう一枚は女のものだった。


男の方の写真を、鏡に映る自分の顔と見比べてみると

特徴がほぼ完全に一致していた。名前は今とは違っているが

どうやら私のIDらしい。白衣姿の写真の私はかなり若かった。

おそらく20年以上は昔のものだろう。20年も前のことを私が

覚えているはずもない。

もう一枚のIDの女を見た瞬間、私はその女が、時折浮かんでくる

イメージの中で私の隣にいた人間だと理解した。知らない顔なのに

ひどく懐かしく、同時に恐ろしいほど愛しかった。気がつくと私は泣いていた。


二人のIDには同じ所属が示されていた。



アルステック広域脳神経研究所

第3主幹研究部門

“Rain”チーム



電気が走るように、いろいろなイメージがよみがえってくる。


いくつもの研究室。実験を繰り返した日々。

やがて空から舞い降りた赤い雨。

歓喜する私と仲間達、その中に彼女もいた。


自分の心の奥底から

「思い出すな!思い出したらまた苦しむことになるぞ!」

と警告する声が聞こえてきた。



自分は一体何をしたのだろう・・・


彼女は誰なんだろう。

逢いたい、今すぐ逢いたい。

来月でも、来年でもなく今すぐに逢いたい。

どんなに苦しくても、何を犠牲にしてもいい・・・


その欲求はどんどんふくらみ、耐え難いものになった。

なんとか忘れようと雨を浴びても、効果はなかった。

こんなことは初めてだ。


5日目の夜、私はついに諦め、クローゼットの中に眠っていた

小さな旅行かばんに荷物を詰め込んだ。この街を出て

全てを思い出すほかに道がないのは明らかだった。


私は、激しい苦痛の予感を受けとめながら

住み慣れた、しかし思い出のない部屋を後にした。



おそらくは自ら望んで作り出した

この優しい雨から逃れるために






by tak