「忘れ物、ないよね」

僕はボストンバックを肩にかけながら、
病室の窓からの景色を、少しなごり惜しそうに
眺めている彼女に聞いた。

「うん、大丈夫だよ」

彼女は振り返って、首をかしげるようにしながら
柔らかく微笑んだ。肩の少し上で切りそろえた
ストレートの髪が、サラッと彼女の頬をなでる。



体の一部、たとえば左腕を失った人は、
はたして元のその人と同じ人間なのだろうか。
たいていの人は、「もちろんそうだ」と答えるだろう。

では、
記憶の一部、たとえば初恋の記憶を失った人は、
はたして元のその人と同じ人間なのだろうか・・・

彼女は、一ヶ月前に記憶を失った。

何の前触れもなく、突然自宅で倒れて、家族が救急車を呼んだ。
そして病院で目を覚ましたときには、もう記憶は消えていた。
とはいっても、何もかも忘れてしまったわけではない。
言葉や、生活の仕方、一般常識などは全く問題なく、
家族のことも、ちゃんと覚えている。
ただ、倒れる直前三年間の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

したがって、僕が真っ白な壁と天井に囲まれたこの病室の
リノリウムの床に、最初に足を踏み入れたとき、
彼女は僕を「知らなかった」



「ねえ、私はあなたとどんな風に付き合ってたのかしら。
 少しづつでいいから聞かせて欲しいな」

記憶を失ってから一週間ほど経った頃、
真っ白な病室のベッドの上で、彼女はそう言った。

僕は、いつも彼女のベッドの右斜め前にパイプ椅子を広げ
そこに座って、ぽつぽつと話をした。

「音楽の趣味はよく合ってたから、よく一緒にライブを見てたよ。
 去年の夏は、ロックフェスにも行った。苗場でやってるやつ。」

「ロックフェス?」

・・・やれやれ。
僕は苦笑いしながら、説明した。

「そう、いろんなアーティストを集めて数日間にわたって
 ライブをやる音楽のお祭り。苗場の山の中に仮設のステージが
 いくつも作られるんだ。一緒に行ったんだよ?テント張ってさ、
 キャンプしながら3日間ぶっ通しでライブを聞きまくったんだ。
 WHITE STRIPES とかPJ Harveyとかね。しまいには、
 力尽きた俺をテントに置き去りにして、君一人で
 あっちこっちのステージを飛び回ってたよ。
 それで怒った俺が一人で帰ろうとしたら君が逆切れして・・・・」

彼女は、くすくすと笑いながら僕の話を聞いていたが、
やがて肩を震わせて泣き始めた。

「ゴメン……ゴメンね。覚えてないんだ…私
 ……あなたの知ってる私じゃない…」

そういう時、僕は何もいえなかった。
肩を抱くことすらできなかった。
真っ白なシーツの上に置かれた彼女の手の上に
自分の手を重ねて、ただじっと彼女が泣き止むのを待った。

そして、そういうことが何度か繰り返された。



結局、記憶喪失の原因は分からず、特に異常は見つからない
ということで、数週間で彼女は退院することになった。
医者の話では、こういうことは結構あるらしい。


ボストンバックを肩にかけて、真っ白な病室を出ると
退院の事務手続きを済ませて、僕達は病院の外へ出た。
彼女はうれしそうに、何度も何度も深呼吸をした。
よほど外気に飢えていたらしい。

だだっ広いアスファルトの駐車場にぽつんと停めてある
僕の青い車につくと、荷物を後部座席に放り込んで、
僕は運転席に、彼女は助手席に乗り込んだ。

エンジンをかけると、プレーヤーに入っていたCDが
自動的に再生され、音楽が流れ出した。

「あ、私・・・このメロディ聞いたことある」

と、彼女が言った。
THE LA'Sの“There She Gose”だった。

僕はハッとして、助手席の彼女を見つめた。
それは、僕が彼女に教えた曲だった。

「ん?どした?」

僕は、しばらくそのまま彼女を見つめていたが
やがて前に向き直りつつ、笑って答えた。
「いや、なんでもない」



記憶の一部を失った人は、はたして
元のその人と同じ人間といえるのだろうか。
もちろん・・・いえる。一部を失おうが
全部を失おうが、彼女は彼女なのだ。



僕は、ギアを入れて車を出しながら彼女に聞いた。

「で、どこに行く?」

「・・・どこへでもいいわ。
 幸いスケジュールも全部忘れちゃったことだしね」

彼女は、カラッとした笑顔でそう答えた。
僕はチラッと助手席の彼女を見て笑顔を返した。
そう、どこへだって行けるはずだ。


青い車は門をくぐり、海へと続く県道に出ると、
滑らかに加速して、病院を後にした。









by tak