日が傾いてきた。

何について語ろうか。空想を語るか思い出を語るか夢を語るか。
どれも当てはまらない。今の私を書き残しておきたい気分だ。

感覚から書き出してみよう。さっきたばこを吸ったからか頭がもやもやしている。
あとは、いつものことだが胸のあたりが息苦しくて少し気持ち悪い。
高速バスの2人席に一人で座って、片足を椅子のうえに投げ出して、無意味に文章を残している。
この状態の人間を客観的に想像して心情を推測するのは意外と簡単なことだろう。
人は複雑なようで実は意外と単純だ。
一目見ただけではその人の過去やストーリーは分からないかもしれないが、人とは常にそんなものを抱え続けているわけではないだろう。
そこに存在していて、その場の状態と思いつきと即席の感情が、その場の人間の八割以上だ。
今この瞬間の私たちは、進行してきた台本を与えられ、舞台上に放り出されて、即席の演技で手に握られた台本のストーリーを紡いでいっている。
そのときの材料と状態に反応して脳が行動選択していると考えれば私たちは決められたストーリーをなぞっていると言えるが、この舞台になんの関連もなく放り出されたスタントマンのような感覚に重きを置けばどんな突拍子のない行動も可能だ。
縛られているようで、自由なようで、後から振り返れば結局縛られていたように見える。

意味もなく書き始めたから、この文章には意味がない。
私も書きながら、単純な要素をもとに推測して様々な人と付き合っていく感覚について深めるか、行動選択と運命について深めるか、方向性も確定させずに書き進めている。
だが私の感覚では人間みなこうではないだろうか。
完成された長文はよく、存在する要素または要因を意識的に選んで摘み上げて、何かしらの結論や意味づけを行う。意味付けをするために論理を進めていくのは、イメージ的には目の前のサッカーボールを自分が選んだ方向にあるゴールに向かって蹴り進めていくようなものであり、それはかなり強引なものである。意味づけとは結局その人のそう進みたいという意思とこじつけに過ぎない。
これを自我というのだろうが、私はこれを行うのがおそらくとても苦手だ。方向とゴールの選択に正解なんてものはなく、無意識に行える人はこれを繰り返していけるのだろうが、私は意味もなく方向を決めてボールを蹴り進めてゴールに狙いを定めてシュートするという一連の動作が途方もなく大きなエネルギーを使うものに感じるし、しかもそれは結局自己満足に過ぎないのだから、生きていくというのはなんて大変なことなんだろうと思う。

だから答えを出すことを目的としない自己分析や思考をよくする。この自己分析等は言ってしまえばただの現実逃避である。ボールを蹴り進める方向を検討しているように他人にも自分にも見せかけながら、何も動かずにその場の状態を放置することを容認する。
そのイメージだと、こんなことをずっとしていたらその人間はきっとどこまでも落ちぶれていくだろう、というような焦燥を感じるが、そんな焦燥すら容認したいという欲望に駆られる。
きっと私はこの舞台を即席で演じ続けるというあがきをしたくないのだろう。

こうやって文章に残しながらだと、いつもより何倍も思考の範囲が狭く、速度が遅い。
だがいつもの広さと速度だとほとんど記憶に残らないので、こちらのほうが良いのかもしれない。

今まで書き残してきたこととは全く別の思考をしたくなってきたが、それすらもここに書き残すと、とっ散らかったものになるだろう。
いったんこの辺でおしまいにする。