キリスト教を標榜するほぼ全ての組織によれば、クリスチャンとは「神の休みに入った人たち」のことになります。ですから彼らは「未信者」に対して、神の休みに入るよう勧めていると言えるでしょう。創世記に記されているように、神は六日間の創造の業を終えられて、七日目に休まれたので、真の神の民も「神の休み」に入るべきであるというのが、その人々の主要な考えです。

しかしながら、創造の六日はすでに終わり、今は七日目の「神の休み」であるとする考えでは、いくつかの矛盾が生じます。

その一つは、神がご自分の創造したものすべてをご覧になって「それは、はなはだ良かった」と述べられたことです。あなたは今日までの人類の歴史や、今日、世界で生じている事柄を見て、それは「はなはだ良い」と思われますか。報道されていない闇の世界も、全てご存じである神が「それは、はなはだ良かった」と述べられるような世界でしょうか。

 

もう一つの矛盾は、イエスの次の言葉です。

「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)

現在、「神は七日目に入って休んでおられる」とするキリスト教の教えとは、正面から矛盾するイエスの言葉です。私たちは、「神は今も働いておられる」というイエスの言葉と矛盾しない仕方で、聖書を解釈しなければなりません。

 

そして三つ目の矛盾点は、この「神の休み」について説明したパウロの言葉の解釈の仕方です。

すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、(中略)もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。 (中略)したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。(ヘブライ4:4-11)

 

上記で「努力しようではないか」の部分は、対語訳のキングジェームス訳では「let us labor」すなわち「労働しよう」となっています。当然「安息」に対応する「労働」です。パウロは難しい表現を用いていますが、要点は、私たちはまだ「神の休み」に入れるのだから、不従順にならずに、頑張って「働こう」と勧めているのです。もちろんそれは、お金のために働くことではなく、イエスの戒めに従順な、「良い業」のために働くことを指しています。

このパウロの説明も、今は七日目の「神の休み」ではなく、「神の休み」に入れるよう働くべき「六日目」であることを示しています。

従って、クリスチャンとは「神の休み」に入った人のことではなく、「神の休み」に入るべく努力している人のことなのです。その神のための「労働」とは、一週間のうちの特定の日だけ行うものでなく、「神の休み」に入る日まで、日々続けるべき労働です。七日目はまだ到来しておらず、神は、「はなはだ良い」と言える日に向けてまだ働いておられるので、クリスチャンであろうとする者も、イエスと神に倣って働かなければなりません。

 

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 (ルカ9:23)