イスラエル人にとっての罪とは、モーセの律法に対する違反です。彼らは、モーセを仲介者とする、神との律法契約に入っていました。現在のクリスチャンは、誰一人、モーセの律法契約に入っていません。過去に入ったことも無ければ、律法を学んだことさえありません。従って、モーセの律法契約に違反することによる、罪人として裁かれることはありません。当のイスラエル人でさえ、クリスチャンになるなら、もはや律法の下にはいません。律法契約は役目を終え、新しい契約に置き換えられたからです。パウロは次のように述べています。

 

律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。(コリント第一9:20,21)

 

クリスチャンとは、キリストを仲介者とする、神との「新しい契約」に入った人のことです。ですから新しい契約の下での「キリストの律法」に従う必要があります。その律法とは「キリストの愛に倣って、あなた方は互いに愛し合いなさい」と言うものです。

 

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

 

とは言え、モーセの律法そのものが無効になったのではありません。キリストの律法はモーセの律法全体を包含するものであり、クリスチャン一人一人の心に書かれることになります。クリスチャンがこの戒めに従うとき、モーセの律法をも全うする(成就する)ことになるのです。ですからイエスは、次のように言われました。

 

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(マタイ5:17)

 

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。(マタイ7:12)

 

第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ22:39、40)

 

パウロも次のように述べています。

 

律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。(ガラテア5:14)

 

従って、ヨハネがその手紙の中で「罪」と言う場合、この「キリストの律法」に対する違反を指しています。クリスチャンであると言いながら、闇の中を歩んでいる者とは、「キリストの律法」を守らない者であり、それが偽り者、すなわち偽クリスチャンなのです。

 

神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。 (ヨハネ第一1:6)

 

「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。(ヨハネ第一2:9)

 

あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。(ヨハネ第一3:15)

 

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。(ヨハネ第一4:20,21)