わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。(ヨハネ第一2:1)
キリスト教会はこの教えを受け入れません。私たちは様々な誘惑に囲まれており、不完全で弱い人間が、罪を犯さないでいることは不可能であると教えています。
確かに誘惑は多いとは言え、誘惑に会うこと自体は罪ではありません。イエスも悪魔の誘惑に会いました。しかしその誘惑に屈することはありませんでした。ヤコブが述べているように、人は誘惑に負けて、罪を生み出すのです。誘惑に負けるのは、欲望を抱き続け、欲望を募らせるからです。
人が誘惑に陥る(負ける)のは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。(ヤコブ1:14,15)
ヨハネの手紙は、その全体が、真のクリスチャンと偽クリスチャン(反キリスト)との違いや、その識別方法について述べているのであり、神と交わりがある(クリスチャンである)と言いながら闇の中を歩いている偽クリスチャンと、光の中を歩んでいる真のクリスチャンを、明確に対比させています。
偽クリスチャンとは、罪を犯す者たちのことです。
すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。(ヨハネ第一3:4)
すべて罪を犯す者は彼(キリスト)を見たこともなく、知ったこともない者である。(ヨハネ第一3:6)
罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。(ヨハネ第一3:9)
一方、真のクリスチャンは罪を犯すことはありません。
すべて彼におる者は、罪を犯さない。(ヨハネ第一3:6)
すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。(ヨハネ第一3:9)
すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかた(キリスト)が彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。 (ヨハネ第一5:18)
不完全で弱い人間にとって、どうしてそのようなことが可能でしょうか。その答えは、神の奥義である「内住のキリスト」です。
その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。(コロサイ1:26,27)
これは奥義ですので、聖徒たちには明らかにされていますが、偽クリスチャンには理解できないものとなっています。従って、真のクリスチャンと、偽クリスチャンすなわち反キリストとを識別するのに役立ちます。自分の肉体の中にキリストが来られたことを告白できる人は真のクリスチャンですが、その告白ができない者が反キリストです。
愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。(ヨハネ第一4:1-4)
「キリストが肉体をとってこられたこと」との表現は、三位一体論者によって歪曲されたものですが、原文は「キリストが肉体の中に来られた」となっています。この「あなた方の内にいます」「大いなるもの」、すなわち内住のキリストによって、罪に打ち勝つことが可能になりますが、キリストを持たない者は、罪の奴隷状態に留まることになります。
神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。(ヨハネ第一3:10)