黙示録17章および18章は、緋色の野獣の上に乗っているひとりの女に対する裁きに付いての解説です。

 

それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。 地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。 わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。(黙示17:1-6) 

 

「大いなるバビロン」についても、様々な解釈が展開されていますが、聖句に忠実であれば、この奥義も解明することができます。この女はまた、「地と憎むべきものらの母」とも述べられています。この「憎むべきもの」の正体が、西欧諸国で崇拝されている「偽キリスト」、すなわち「人神キリスト」であることは、既に説明したとおりです。これは終わりのときに明らかにされる「不法の者」であることも、No.56-60において説明しています。ですから、「偽キリスト」や「不法の者」を生み出した母親が、この女、すなわち「大いなるバビロン」なのです。

 

では、「偽キリスト」や「不法の者」は、何時、何処で生まれたでしょうか。聖書の記録は、それらが使徒たちの時代に既に存在していたことを明らかにいており、その生まれた場所は、他ならぬエルサレムです。次の御使いの説明に注目してください。

 

あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。(黙示17:18) 

 

聖書における「大いなる都」とは、エルサレムのことです。

 

彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。 (黙示11:8) 

 

ですから、「大淫婦」また「大いなるバビロン」とは、ローマカトリックでも宗教体制でもなく、イスラエルの首都「エルサレム」を指しているのです。

このエルサレムについて、使途パウロは次のように述べています.

 

そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。 しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。(ガラテア4:22-27)

 

真のクリスチャンは、「上なるエルサレム」から生まれた、自由の女の子ですが、「偽キリスト」は、今の(地上の)エルサレムから生まれた、奴隷女の子であると、パウロは説明しているのです。

ですから、地上のエルサレムが、十本の角であるイスラム勢力によって滅ぼされるのは、人神キリストを信奉する、偽りのキリスト教を生み出した母、エルサレムに対する神の裁きなのです。

これは、西欧諸国の信奉する偽キリスト教が、神の是認を受けていないことの、明確な表明となることでしょう。