神の名の正確な発音が失われた現在、神の名をみだりに唱えること自体も不可能となったのでしょうか。すなわち、第三の戒めはもはや無意味となったのでしょうか。

 

「みだりに唱える」ことの意味を考察する前に、「神の名」について考えてみましょう。イエスはこの世を去る前に次のように述べました。

 

そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。(ヨハネ17:26)

 

イエスは弟子たちに「御名を知らせた」と述べていますが、聖書のどこを見ても、イエスが神の固有名を口にしたことは一度もありません。また弟子たちの誰ひとり、神の固有名を用いていません。これは、イエスが御名の正しい発音を弟子たちに知らせたと言う意味ではないのです。では聖書の言う「名」とは何でしょうか。

 

おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(ピリピ2:8,9)

 

 御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。(ヘブル1:4)

 

復活したイエスは、「イエス」とは別の新しい名を与えられたのではありません。イエス自身が次のように説明しています。

 

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。(マタイ28:18)

 

「名=権威」とまで言えなくとも、「名」の主要な意味は「権威」なのです。これは聖書特有の表現でもなければ、新しい意見でもありません。「会社の名にかけて」や「国家の名において」「国王陛下の名の下に」など、世俗の社会でも用いられており、固有の名を用いなくても、それと同じ意味の「権威」を表しているのです。

 

パウロも次のように説明しています。

 

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。(エペソ1:20,21)

 

従って、「あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」における「名」とは「神の権威」のことであると理解しなければなりません。ここでは「ヤーウェイ」だとか「エホバ」だとかは問題ではないのです。神の権威をみだりに口にしてはならない。神の権威をみだりに用いてはならない、と言うのが、第三の戒めの本意なのです。