あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。(出エジプト20:7)

 

十戒の第三番目です。「神の名をみだりに唱える」とは何を指すのでしょうか。これが回数を意味しないことは明らかでしょう。例えば、一日3回までは許されるが、それ以上は罰せられる…などの意味ではありません。エホバの証人が「エホバ」を連発するとしても、そのことが「神の名をみだりに唱える」ことには当たらないでしょう。しかし古代イスラエル人は、そのような幼稚な捉え方をして、神の名を一切発音しなければ、この戒めに抵触することはないと考えたのです。その結果、御名の正確な発音は失われてしまいました。

 

ある人は、「みだりに」とは「みだらな仕方で」とか「みだらな話題に」などの意味に解釈します。高尚な霊的な話であれば良いが、俗悪な話の中に神の名を用いてはならないと考えるかもしれません。御名の神聖さを汚すような仕方で用いてはならないと考えるのです。この考え自体は正しいと言えますが、第三の戒めは本当にそのことを禁じているのでしょうか。

もとより聖書は「卑猥な話」や「俗悪なむだ話」自体を禁じています。分別のない邪悪な者が、品位の無い話の中で神の名を用いたとしても、それによって万物の創造者の名が汚されるのでしょうか。神はそのことを不快に思って罰せられるのでしょうか。これも冒頭の考えと同様に、幼稚でレベルの低い捕らえ方と言えるでしょう。神をあまりにも過小評価するものだからです。神はそのような者を相手にされているのではありません。

 

神がモーセを通して与えられた十戒は、人類全体を対象としたものではありません。それは選ばれた特別な民族、聖なる祭司の国民となるべきイスラエル人に与えられたものです。彼らは自らを清めて神に近づき、神との特別な関係に入り、神を代弁する人々となるよう召されたのです。そのような人たちに対して「神の名をみだりに唱えてはならない」と言われたのです。

 

終わりの日である現在、彼らによって予表されていたのは、イエスによる「新しい契約」に入ったクリスチャンたちです。

 

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。(ペテロ第一2:9)

 

では、全人類に対して神を代弁すべきクリスチャンは、どのようにして第三の戒めに留意できるでしょうか。