これはイエスの再臨に際して、人々に求められる大切な事柄として、マタイやマルコの記録に頻繁に登場するイエスの言葉です。この言葉はJWの新世界訳だけが「見張っていなさい」と訳しています。この事実だけでも「見張っていなさい」との訳出は怪しいと言えるのですが、さらにこれが改竄であると言える聖書的な根拠を二つ提出しましょう。

一つは正道に従って「文脈から」の判断です。一連の記述の中では「目を覚ましていること」と「眠っていること」が対比されており、これらは確かに相対応する事柄と言えます。たとえば新共同訳のルカ13:34-36では

「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。」となっています。

ここでは「仕事を割り当て」られた僕たちはもちろんのこと、「見張っている」ことが仕事である門番に対してさえ、求められているのは「眠っているのを見つけ」られないようにすることであり、すなわち「目を覚ましている」ことです。(「眠っている」に対応するのは「目覚めている」と言うことです。)

イエスのたとえを解釈するには、この対比を踏まえて理解する必要があり、「見張っている」などの特定の(一つの)行為に限定して勝手な解釈をするのは間違いです。ましてイエスに迎え入れられるか拒絶されるかの分かれ目となる、極めて重大な事柄なのですから安易な解釈は許されません。

二つ目として、新世界訳で「見張っている」と訳出することにより、意味不明となっている箇所を紹介します。
それから彼らにこう言われた。「わたしの魂は深く憂え悲しみ,死なんばかりです。ここにとどまって,わたしと共にずっと見張っていなさい」。それから弟子たちのところに来られたが,彼らが眠っているのを見て,ペテロにこう言われた。「あなた方は,わたしと共に一時間見張っていることもできなかったのですか。」  マタイ26:38、40

お分かりでしょうか。イエスは何かを「見張って」おられたのでしょうか。そうではありません。もちろんこの箇所は「たとえ」ではなく現実の出来事ですが、イエスは眠ることなく「目を覚まして」祈っておられたのです。他の全ての聖書翻訳が示しているように、ここで弟子たちに求められていたのは、イエスと共に「見張っている」ことではなく「目を覚ましている」ことなのです。

ですから「見張っていること」を根拠にして、世界情勢の展開に注目して聖書預言と結びつけ、イエスの再臨の時を推し量ろうとする試みなどは「目を覚ましている」ことと何の関係もないことが、続く一連の記事で理解できるでしょう。