✨定義✨

これまで経験して来た事は良くも悪くも自分で決定してきた。
その時は逃げだったり、諦めだったりする事も結局自分が決めている。
善悪で物事を考えると、悪い決断良い決断と単純に分けてしまいがちだが、物事の善悪はおそらくない。少なくとも私はその様に捉えている。
その上でもし仮に人生に意味があるとするのなら、様々な事を経験、体験する事に意味があるのではないだろうか。

私はこれまでにスピリチュアル系のセッションを幾つか受けた。それ以前の若かりし頃には、仏教に帰依しており、かなり信心深かった。
それらに共通して、ヒーラーや支部の長などに色々と私自身の事を話してもらう時、何となく納得はする。しかし、結局私はそのどれもが真実で虚構だと思う。あなたの前世はこうでした、とか、今の状況は因縁が、とか、それもまたそうなのだろうと思えるのだけれど、今の私はそれらを盲信的に信じたりはしない。

それはなぜか。
自分で見た訳でも感じた訳でもないからだ。
それらの人が嘘やまやかしを言っている電波な人だと言うのではない。もちろん、彼らの事は信じている。ただ、そこに私の実感が伴わない限り、それは私の事として100%認識は出来ないということだ。いついかなる時も私が違うと思うなら、それは私の世界では違うのだ。

こう言うとかなり面倒臭い、ややこしいい人みたいだが、どんな立場の人に何を言われようが、自分が心底納得しなければ意味がない。
自分の輪郭がはっきりとしていない時や、自己否定がある時は信頼できる人に言われる言葉はまさに光の様だ。
しかし、ひとたび自分を取り戻したならば人の言葉より、自身の心の言葉に信頼をおくことが出来る。
人の助言や言葉を否定するのではなく、あくまでも一意見として受け取ればいいのだと言うこと。
それを自分の感性と心に照らし合わせた時、何か違和感があるなら、迷わず自分の心を信じる方がいい。例えそれが、常識や世間から大幅にずれていたとしても。
その選択こそが、自己責任であり自分軸だからだ。
誰かが認めてくれる事が必要ならば、それは羊と同じだ。

私達は、皆んなそれぞれの価値観があり真実がある。
多少おかしくたって、どんな時も自分で選んだ事の方が真実と言う光に近いはずなのだ。
アドバイスとして参考にしたり、ちょっとした答え合わせみたいな感覚が丁度いいのかもしれない。
そこに全てを委ねてしまうと、自分を信じる事や直感から遠のいてしまうからだ。

そして、彼らの言う言葉もまた真実であること。真実とは多様性に満ちており、パラレルワールドの如く存在する。
どの真実を選ぶのかそれはいつでも私次第だ。
無限の可能性と自由がいつもここに有る。

愛を込めて。