✨承認欲求✨


人は人と関わり続ける限り、認められたい、理解してほしいと思うものだ。成長の過程で誰もが経験する事だろう。

10代の頃の私は反骨精神が強かった様に思う。

そこから自分なりの哲学を模索する旅路が始まったのだが、思えばいつでも他者と自分の違いや、不条理とも見える世界を何故なのかと疑問に思っていた。

先に結論を述べると、私は人に理解してもらいたい、認めてほしい、仲良くしたい。という目的の為に生きているのではないとようやく気づいたのだ。

自分が何者で何をしたくて、何をしたくないのか。
何を目的に、何の役目を全うしたいのか。
その問いかけの中で誰かを癒したいとか、力になりたいとか、ヒーラー的な役割を担いたいという思いに駆られた事もある。

おおよそ、その目的への流れは間違っていないと思うが、元来1匹狼的な孤高の詩人なので、群れない性質が強い為、皆んなで力を合わせて、えい!えい!おー!が出来ず、どうしてもはみ出してしまう。
更に言うと皆んなに理解されたい、認められたい、という欲求が弱くなってきているようだ。
若い頃であれば、「そんな簡単に理解されてたまるかってんだい、てやんでい!」と少し屈折した承認欲求だったが、今は、「理解されてもされなくても、私の何かが変わる訳ではなし。」と思っている。
万人にではなく、私の感性に共感してくれる人に伝われば良いと思うからだ。

そこで、先ほどの結論に繋がってくる。
私は、なかよしこよしごっこをしたいわけじゃない。私の事を理解してもらい、認めてもらうために生きているのではない。
ただ私であることを感じたいだけなのだ。
だから、誰に認められなくとも、理解されなくとも、私の生きている理由は果たされている。
生きる事に大した意味はなく、全ての事象に深い意味もない。
ただそこに在るだけだ。

私はいつでも私自身に興味があり、探求し続ける。私の全てを知りたいのだ。
こんなに面白い研究は何処を探してもないだろう。
自分探求の旅はまだまだ続く。

愛を込めて。