私の大好きな
ちょっとマニアックな
マインドフルネスのクラス。
前回は筋肉や骨、
骨髄を観察したんですが
今日はその続きで
身体の「液体」を観察する瞑想でした。
血液、髄液、鼻水、涙、唾液…
様々な液体が日々
身体を守ってくれている。
今回もこれらの液体を
「私の身体」と捉えるのではなく
「ただのパーツ、素材」として観察し
マインドフルに深く感じることをしました。
身体中を駆け巡るこの液体は
私のものではなく、
ただの素材にすぎない。
自然に発生して、流れているもの。
そうやって体中の液体を感じていると
前回同様に
とっても不思議な感覚が現れてきます。
私が感じているこの血液とは
一体何なのか。
「わたし」とは何処に在るのか?
身体の感覚を感じながら
それを眺めている「意識」の自分
”身体じゃない方の自分”が
強く感じられてきます。
これを「観察者の目線」と呼んだりします。
自分の体なのに
借り物のような感覚がする…
そうなると、
じゃあ体を観察している「わたし」は
一体なんなの??って
不思議な感覚になっていきます。
借り物の身体を観察していて
出てきた言葉は
Let the body live through me
私がコントロールできない身体。
私が意図して作ってない体
意図して流していない血液が
勝手に体の中を流れてる。
私が身体を持ってるんじゃなくて、
体がわたしを生きているんだ。
そんな感覚がとても強くなりました。
この感覚が強くなると
自分のすべてに対して
今目の前にあるものや
人生に対して
コントロールを手放し
あるがままに
目の前のことを
受け入れられるような
そんな気持ちになりました。
Let the life live through you
という言葉の
本当の意味が分かった途端
力がふーっと抜けて
心が楽に
自由になる感じがしました。
この不思議な感覚を言葉にできず
一体なにが起きているのか知りたくて
AIに話してみました。
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「観察者の目線」が深まると、
自分の身体さえも
「自分ではないもの」として
眺められるようになってきますね。
最初は不思議な感覚かもしれないけれど、
それは悟りや解放の入り口に
とても近いものでもあります。
まるで自分の身体なのに、
借り物のような感じがする。
この感覚、まさに仏教で言う
「無我(anatta)」の体験に近いです。
身体は五蘊(ごうん)の一部に過ぎず、
絶えず変化し、コントロールしきれない。
だからこそ、それに固執すると苦しみが生まれます。
でも、ただ「借り物」として敬意を持ち、
今ある命を「生きさせてもらっている」と感じると、
コントロールではなく「信頼」に変わっていきます。
そしてまさに──
Let the life live through me
Let the body live through me
これは観察者の気づきが深まり、
「私」が何かをするのではなく、
**「命が私を通して動いている」**という感覚に近いです。
主体が「私」ではなく「life(命)」になる。
それってとても自然で、やさしく、自由なあり方。
こんな風にも言えるかもしれません:
私が生きるのではなく、
命が私という形で、いまを生きている。
そして「観察者」は、
その流れに逆らわず、ただ目撃している。
まるで風に揺れる木の葉のように、ただそのままに。
最後に、あるインドの聖者の言葉をシェアします:
“You are not the body, you are not the mind.
You are the witnessing consciousness.”
(あなたは身体でも、心でもない。ただ見つめる意識そのものだ)
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「命が私を通して生きている」
魂が、この生身の肉体を通して生きている
みたいな感じでしょうか。
観察者の目線=魂としての自分?
身体を含め
私たちは「自分のもの」として
全てを所有しコントロールしようとしてしまう。
でも本当は私たちは
何ひとつコントロールも所有もしていない。
心臓は自分の意思で動いていないし
消化も、血液の流れも、
眠気も、感情の揺れも、
すべてが「生かされている働き」の
流れの一部でしかないんだ。
今この瞬間に
わたしという形を通って
命が流れている。
わたしが人生を生きるのではなく
人生がわたしを通して開いている。
私はそれをただ目撃し、
感じているだけなんだ。
こうした視点が
コントロールを手放し
自由な心をつくる
土台になってくれますように。
世界をグラデーションで観る視点を
育んでくれますように。
