「ただ」という言葉って

「ありのまま」に物事をみる視点を

育んでくれる言葉だなーと

今朝ラベリング瞑想をしている時に

改めて感じました。

 

ラベリング瞑想では

頭に浮かんだこと、

聞こえてくる音、感じたこと、など

受け取った全てにラベルを貼り

手放す、という練習をします。

 

例えば、カラスの鳴き声が聞こえてきたら

思考は瞬く間に

「カラス→ゴミを荒らす→今朝出したゴミは大丈夫だろうか」

このように連続した物語を展開します。

これをストップするために

カラスの声が聞こえてきたら

「鳴き声」というラベルを貼って手放します。

「ゴミを荒らすカラスの声」ではなく

「ただ鳥が鳴いているだけ」という捉え方に変えるんです。

 

この「ただ」という言葉をつけるだけで

物の見方、現実の捉え方が変わりますね。

 

何か物事が起きたとき、

例えば道で転んでしまった時。

 

「ああ、私ってついてない。」

「この道を通らなければよかった」

「最近ツイてないことが続いている。」

「私の何がいけなかったんだろう」

「家が散らかっているから悪い運気を呼び寄せたのかも」

 

こんな風に思考が勝手な物語を展開することがありますよね。

転んでケガをしたり、痛い思いをしたのに

更に余計な思考で自分を責めたり

嫌な思いをしてしまう…

 

こうした思考の働きを一旦お休みして

もっと高い視点(宇宙目線?)

ニュートラルな目線で物事を見てみる。

物語を作っているフィルター(色眼鏡)を外してみると

 

「ただそこを歩いていて

ただ何かにつまづいて

ただ転んだ」

このような視点でとらえることができます。

 

私は以前、大きな音が苦手で

身体がビクっ!!と反応してしまい

「何か怖いことが起きる」という捉え方でしたが

ラベリングを練習することで

「大きな音=怖いこと」という認知が薄れ

「ただの音」という捉え方ができるようになってきました。

 

日常的に私たちのストレスや苦痛を作っているのは

起きている「出来事」そのものではなく

その捉え方、物語(妄想)を作っているフィルターなんですよね。

良い悪い、という二極を作っているのも

このフィルターが作っている物語。

 

草花や海、山

自然って究極に「ただ」を体現しています。

ただそこに存在している。

そこには善悪の物語などなく、

平等でボーダーレスな

互いが繋がりあった世界に生きています。

私たちもこの自然の一部として「ただ」

ここに存在しているんです。

そのことを思い出していく

ニュートラルな目線を育てていきたい。

 

「ただ」という目線を育て

ありのままを受け入れていくことで

一歩ずつそこへ戻っていきたい。