私には一緒に暮らしている人が1人。
それは祖母
両親やちゃんとした家族もいるけど
合わず、合わせることもしんどく
自分を大切にする為にも家族から離れ、距離を保ち
ばあちゃんと暮らしている
祖父が1年前に亡くなり
それまでは15から祖父と祖母と3人暮らしだった
新しい感性を持っている私は誰と真から分かり合えることはないけど
ばあちゃん世代は特に昔ながらの古風な古い価値観を持っているし
当然合わない。
新しい感性を持ち、そして果てしなく自由な魂である私。
合わなければ、毎日ぶつかってばかり
しょーもないことで一日に何回言い合うんだか
人の感情に敏感であり、察してしまい、恐らく感情を吸収してしまう、恐らくエンパスである私はネガティブな感情や荒い波動にはかなりの負荷がかかってしまう
エンパスには何種類かあり、私は恐らく感情直感型という部類に入る
人とぶつかったり、イライラしてたりどんよりした波動を出している人と一緒にいるのは本当に滅入るししばらく引きずる。
だからこそ浄化という事が重要になってくる
祖母とぶつかることも実はかなりの負荷がかかっている
私はもっとこうしたらより良くなるということにすぐ気がつく。それが最善というのは自分の価値観だけど
だから、頭の悪い人や効率の悪さ、何かを無駄にする事や浪費することに対してとても気に障る
無駄を嫌うせっかちなのである
頑固だし自分自身が納得いくまでやる完璧主義である
この性格もあってばあちゃんとぶつかるんだと思う
ばあちゃんも年とは思えないほどの頑固者やし
散々ぶつかって家を出た後、冷静になった時にふと思う
なんであんな言動してしまったんだろうと
人のあたたかさに触れた時、人に与えられた時、何かがこみ上げるようにそう思う。
本当はどこかでばあちゃんのことをすごく大切に思っているし、どれだけ喧嘩をしてもいつもと変わらず洗濯物をしてくれたり御飯の心配してくれたり
それだけはいつも変わらず
知らないふりするけどら心のどこか奥でズキッと静かに鈍く響く
本当はすごく感謝しているのだけれど
お互い頑固だし融通きかないし本当に素直じゃない
いつもそっとどこかで支えてくれるばあちゃん
普通に考えると、あとどれくらい生きてるんだろうっていつも思う
ばあちゃんおらんくなったら
どこで誰と暮せばいいんだろうって
今いる間に何をどれだけあげることができるんだろうって
そんなふうに思うのに
自分の小ささを思い知らされる
器の小ささには気付いているものの
中々行動にうつす事が出来ない
もっと寛大で棘のない暖かい柔らかい笑顔を人選ばず振りまける人になりたいと心からいつもそう思う
けど、人生は失敗の連続、失敗は成功…というように人は大体何か起こってから失敗を感じて大きくなっていける
どうして幸せは後になって気づくようになっているんだろう
確かにリアルタイムで感じられる幸せもある
でも…きっと上手くいってないときにこう思うんだろうね
その時幸せと思っていなくても時間が経ってから幸せだったなと気づくのは
だからこそ、その瞬間に感じとれるように人はなっていくべきなんだろうけど
楽しいことがずっと続くとうっかり横柄になっていってしまうのが人だから
だからまた悲しいことがやってきて
また楽しいことがやってきてって
人生は山あり谷ありというのはこういう事であり
もしかしたら、いつか年老いた時に
それが美しいと思えるのかもしれない。
"人生"に美的感覚を養うのかもしれない。
人生というプランはよく出来ているもんだ
私がこうして日記に表していくことで
何か気付いていければいいし、
明日、ばあちゃんに少し優しくできるかもしれない
もしかしたら、誰かが見て
このことに気付いてくれるかもしれない
感謝と笑顔にはとても偉大なパワーがある
当たり前のように思われていることだけど、感じ取らないことには出来ない事である
感謝はあること
あることが素晴らしいこと
有り難いこと
どんな時も絶えず思える人になれたらいいな
まとまらないけど終わり。