以前はあまり理解できないことがあった。
そして 許せないというカテゴリーに入ることがあった。
それは
時の流れによって 人との縁が切れてしまうこと
場所環境によって 人が変わってしまうこと
うまく 状況に流されるということが出来ない性分
だった。
友達を若干 執拗に大事にしようとしすぎる
結果偏ってしまっているのか 関係が若干ギクシャクしたりとか
それか
当たり前だけれど それをうけいれられないのか ちょっと解らないけれど
とにかく
人とのかかわり 特に 友人とのかかわり
仲良くなれば 仲良くなるほど
近くなればなるほど それはそれで 問題が生じたりすることもある
そして
以前 ある友人が
SNSの存在にとても 批判的な思いを抱いていた
出来れば 過去の人と繋がりたくない
そのような意図だった。
何でそんなにかたくなに 過去を否定するんだろう
過去からの友達とをとにもかくにも大事にしようと固執していた私には
その感覚が理解できなかった
彼は 彼女になった。
そのときに 数年前に言っていたその言葉の意味をようやく理解した。
今を生きること
その意味をようやく 私は理解したように思う。
仲がよければ仲がよかったほど
疎遠になって 変わってしまったときは とても悲しいものだったりするんだけど
それも
仕方のないこと 当たり前のことだなぁって。
以前は 学生時代の友人に固執して
異様なほどに大事にしていたけれど
アメリカに来て さまざまな出会いがあって
徐々に 何かが変わってきたのかなぁ
旦那に会って 沢山ぶつかって
いろんなことを乗り越えていくにしたがって
何かが変化してきたような気もするし
今を生きること
目の前の人を大事にすること
あれもこれも 欲張らなくて いま 目の前の そばにいる人を大事にする
それって 当たり前のことなんだろうけれど
なかなか 今までの私の人生の中では しずらいことだったりして。
なれないことだったりして。
どんなにぶつかっても そばにいてくれる人
ぶつかっていったら 離れる人
てか そんなの知らないし っていう態度の人
離れて 何事もなかったかのように 近づいてくる人
きっと それはそれで 好意をもってくれているのだけれど
私は不器用なので なかなか消化は出来なかったり。
求めているものが 大きすぎて多すぎるんでしょう 私は。
きっと 相性もある。
相性 これも やっと 受け入れられるようになった感覚かも
これも
子供が二人生まれて 全く違う人間で
関わっていく中で 苦しんだ末に 受け入れられた事実
私も同じように
理解できない人もいて 反感を持つこともあって
理解しようと努力してみたけど、やっぱり理解不可能だった。
心のともに 泣きついたとき
全ての人に好かれようとしなくていいんよ
そして 私は
友達が減ったんよ というと
その分 深くなったってことだよ
といってくれた。
そう言う見方があったか
目からウロコ
そうは見えないですが
結構遠慮しがちだったりするところがある
みえないひとにとっては ただの 無神経の楽観的な人に見えている
それも それでいい
それも一つの事実。
人によっては その奥にある いろいろな表情が見える人もいる。
それもそれでいい
それもまた事実。
全ての人に理解されようとしなくていいんだよ
だから
自分も全てわからなくても 悪でもないし いけないことでもないし
わからないこともあって 当然なんだよなって
許せるようになった
以前は自責の念にさいなまれていたから。
馬鹿みたいな話だけど
頑張って 文字通り 頑を張って
自分の感覚を無視して
人だけ大事にしていた感じがある
本当の人間関係は
やっぱり 自分を大事にしてこそ
自分の気持ちを大事にしてこそ
それをぶつけ合うことができる
そして 答えが 自然に出てくるもの
時間がかかったけれど
いまさらですが やっとここに たどり着いた気がします。
やっぱりわたしは 不器用で ドンくさいです。
そして
きっととっても偏っています。
焦らず ゆっくり 時間をかけて 理解をしていく
それでいい いや それしかないんですな。
過去の自分で い続けることもない
変わっていっている自分を 大事にしていけばいい
博愛主義の いつも 笑っている中立でいる自分
それしか知らない人は 私に脅威をもつかもしれないよな
その逆のパターンもあるけれど。
両方私だからなきっと。
だから
自然と 自分のコアに近づけば
本当の 友人というのは 残っていくものだよな
自分を大事にする
長年向き合ってきている感覚だけれど
それを本当の意味で 習得していくのは まだまだです。
そして 許せないというカテゴリーに入ることがあった。
それは
時の流れによって 人との縁が切れてしまうこと
場所環境によって 人が変わってしまうこと
うまく 状況に流されるということが出来ない性分
だった。
友達を若干 執拗に大事にしようとしすぎる
結果偏ってしまっているのか 関係が若干ギクシャクしたりとか
それか
当たり前だけれど それをうけいれられないのか ちょっと解らないけれど
とにかく
人とのかかわり 特に 友人とのかかわり
仲良くなれば 仲良くなるほど
近くなればなるほど それはそれで 問題が生じたりすることもある
そして
以前 ある友人が
SNSの存在にとても 批判的な思いを抱いていた
出来れば 過去の人と繋がりたくない
そのような意図だった。
何でそんなにかたくなに 過去を否定するんだろう
過去からの友達とをとにもかくにも大事にしようと固執していた私には
その感覚が理解できなかった
彼は 彼女になった。
そのときに 数年前に言っていたその言葉の意味をようやく理解した。
今を生きること
その意味をようやく 私は理解したように思う。
仲がよければ仲がよかったほど
疎遠になって 変わってしまったときは とても悲しいものだったりするんだけど
それも
仕方のないこと 当たり前のことだなぁって。
以前は 学生時代の友人に固執して
異様なほどに大事にしていたけれど
アメリカに来て さまざまな出会いがあって
徐々に 何かが変わってきたのかなぁ
旦那に会って 沢山ぶつかって
いろんなことを乗り越えていくにしたがって
何かが変化してきたような気もするし
今を生きること
目の前の人を大事にすること
あれもこれも 欲張らなくて いま 目の前の そばにいる人を大事にする
それって 当たり前のことなんだろうけれど
なかなか 今までの私の人生の中では しずらいことだったりして。
なれないことだったりして。
どんなにぶつかっても そばにいてくれる人
ぶつかっていったら 離れる人
てか そんなの知らないし っていう態度の人
離れて 何事もなかったかのように 近づいてくる人
きっと それはそれで 好意をもってくれているのだけれど
私は不器用なので なかなか消化は出来なかったり。
求めているものが 大きすぎて多すぎるんでしょう 私は。
きっと 相性もある。
相性 これも やっと 受け入れられるようになった感覚かも
これも
子供が二人生まれて 全く違う人間で
関わっていく中で 苦しんだ末に 受け入れられた事実
私も同じように
理解できない人もいて 反感を持つこともあって
理解しようと努力してみたけど、やっぱり理解不可能だった。
心のともに 泣きついたとき
全ての人に好かれようとしなくていいんよ
そして 私は
友達が減ったんよ というと
その分 深くなったってことだよ
といってくれた。
そう言う見方があったか
目からウロコ
そうは見えないですが
結構遠慮しがちだったりするところがある
みえないひとにとっては ただの 無神経の楽観的な人に見えている
それも それでいい
それも一つの事実。
人によっては その奥にある いろいろな表情が見える人もいる。
それもそれでいい
それもまた事実。
全ての人に理解されようとしなくていいんだよ
だから
自分も全てわからなくても 悪でもないし いけないことでもないし
わからないこともあって 当然なんだよなって
許せるようになった
以前は自責の念にさいなまれていたから。
馬鹿みたいな話だけど
頑張って 文字通り 頑を張って
自分の感覚を無視して
人だけ大事にしていた感じがある
本当の人間関係は
やっぱり 自分を大事にしてこそ
自分の気持ちを大事にしてこそ
それをぶつけ合うことができる
そして 答えが 自然に出てくるもの
時間がかかったけれど
いまさらですが やっとここに たどり着いた気がします。
やっぱりわたしは 不器用で ドンくさいです。
そして
きっととっても偏っています。
焦らず ゆっくり 時間をかけて 理解をしていく
それでいい いや それしかないんですな。
過去の自分で い続けることもない
変わっていっている自分を 大事にしていけばいい
博愛主義の いつも 笑っている中立でいる自分
それしか知らない人は 私に脅威をもつかもしれないよな
その逆のパターンもあるけれど。
両方私だからなきっと。
だから
自然と 自分のコアに近づけば
本当の 友人というのは 残っていくものだよな
自分を大事にする
長年向き合ってきている感覚だけれど
それを本当の意味で 習得していくのは まだまだです。