今朝、めざましに起こされ、すごく眠くて、とにかくまだ寝ていたかった。
時計を見ると、起きようと思っていた時刻より30分オーバー。
この遅れを克服するには、
普段の2倍速の動きで
朝の支度をしなければならないことを瞬時に脳が計算した。
それはそれはとんでもない慌てぶりで、私は不格好に洋服を着なければならない。
昨夜、お弁当のおかずは朝やろうとサボった。もう作る時間はないので、お昼はコンビニで貴重な数百円を失うことになるに加え、余計な塩分、添加物をとり、また新しいニキビが顎から顔を出すだろう。
朝ごはんは、適当な物を口に押し込め流し込み、味わう暇もないだろう。
なんて惨めな。なんてカッコ悪い。
家中バラバラに散りばめられた荷物をかき集めるべく階段を駆け下り駆け上り、
また下り、
何かを二階に忘れてまた上り、
きっとその間どこかに足の小指をぶつけ数秒間悶絶。
荷物確認の暇もなく自転車に飛び乗り、大腿筋をパンパンにしながら全速力で漕ぐ。
汗だくになりながらもなんとか職場のロッカー室にたどり着いたと思ったら
きっと何か致命的なものを家に忘れたことに気づく、、、。
そんな嫌に完璧な「失敗」の朝の光景がほんの3秒ほどで脳裏を満たした。
今までのたくさんの現実の思い出があるから当たり前だ。
そして、私は怒った。
そんな現実に、逆ギレた。
「してやるかそんな朝。そんな朝は、私には似合わない。」
その感情は、こうとも言える。
「私はそんなひどい朝を送るにはもっとよくできる人間のはずだ。(^ ^)」
なるほど私の現実逃避とは、こう作り上げられるのか。
自己像への高いプライド
が、失敗することを拒絶するのだ。
そしてその背後にある悪の親玉は、
完璧主義。
しかもそれは、実績を全く伴わないのに、図々しく掲げ続けられる。
そんなものは主義でもなんでもなく、ただの遠い理想の自分だというのに。
私はまたしても、悪に対して完全に屈服する姿勢をとった。
そして悪はまんまと私に入り込んだ。
私がこれまで数え切れないほど犯してきたあの悪巧みの声が、脳裏をよぎった。
「今日は体調が悪いので休みます。」
サボりの電話をかけよう。
あの声だ。また聞こえてきた。
あんなにももう二度とサボったりしないと言い聞かせてきたのに。
その声はまんまと、軽々しく、また頭に響いたのだった。
そしてサボりのベテランと化している私の脳は即座に、言い訳、つまり弱い自分への守りの態勢に移る。
本当に体調がわるいと仮定して、自分への同情心を高めるのだ。
くだらねぇ。
罪の「正当化」。
私はこの後に及んで悪魔の声に屈服し、今まで何度も何度もそうして負けた時のように、
そうだそうだサボればいい、私にはサボる権利があるんだ!
と、白々しく目を閉じた。
しかし1分後くらいだろうか、私の目は勢いよくバチッと開いた。
私が目を開いたんじゃなく、開かせられた。
何に?
恐怖にだ。
絶対に行かなければ後で私はとんでもなく不幸になる。
そういう不安が直感的に湧いた。
私の愚かな脳は幸運にもあの後悔の念を覚えていてくださったみたいだ。
卑怯な自分に自己嫌悪に陥る、あの最悪な気分。
思えば最後に「もうサボらない」と決めてから、2か月くらいしか経っていなかった。
何百回も繰り返した負のサイクルから、もうサボろうなんていう汚い欲は二度と私の脳裏には上がってもこないはずだった。
だけどこの後に及んで私は変わっていなかった。
そのことにショックを受けつつも、そんな自分に、もう深く落ち込んだりしなかった。
自己嫌悪はもうし飽きている。
私はそのレベルにいた。
そのレベルとはまさに、
サボり飽きてサボりを克服するかもしれないレベルのことである。
かもしれない、ってのが大事だ。
なんせわたしは生粋のサボり魔なのだから。
そんなにやすやすと信用できない。
例えるなら電車で帰宅途中に眠いから居眠りし、駅を降り損ね続け、終電になって初めてそろそろちゃんと帰宅しようと決意が湧くような感じである。
うん、違うかもしれない。
思えば私は、小学校中学年から25歳になる今の今まで、約15年間、何かと仮病を使いサボってきたのだ。
サボり歴15年のプロなのだ。
今までこの同じ過ちをくりかえしてきたことによって、
あのなんとも嫌な後悔と自己嫌悪の念の感覚だけがやっとの思い出脳みそに少ししみこんでくれたみたいだ。
よかったよかった。
ありがたや脳は、
「テメェ起きろこのやろう」
と言わんばかりの鋭い運動刺激を私のふてぶてしく閉じられた愚かなまぶたに送り、
見事にこじ開けさせたのである。
完