わたしのバイト先である、整形外科高齢者病棟での日々を、私は綴りたくここへ来た。
Mさんという女性がいる。
Mさんは、喋らない。表情もいつも変わらない。
視線はいつも、一点をじっと見つめている。
Mさんの髪はとても短くて、所々薄くて、毛が細くて、地肌が見えるから、柔らかい坊主頭みたいだ。
左足は太もも上から切断されてる。看護助手のわたしには、何があったかは知らされないからわからない。
切断された体部を間近で見るのは初めてだった。
切断面は他の部位と同じようになめらかな肌で、落ち着いてベッドの上で休まっていて、何も心配することはない。
Mさんが自分の左足がないことを自分で知ってるのかは、わからない。
Mさんは何も語らない。
もしわたしが体の一部を切断したら、どう思うだろう。
自分の好きなパーツだったら悲しいかもしれない。好きなことができなくなったら、悲しいかもしれない。
Mさんの足を見ながら、自分の足はあまり好きじゃないので、足だったらそんなに悲しくなる想像ができなかった。
しかしそう頭の中で考えても、いろんなことが思慮に足りていないような焦燥感が残る。
我が身に起こってみないとわからないことはたくさんある。
Mさんは動くことができないから、私たちのお世話がみんなの中で一番必要だ。
食べものを口に運んであげて、
おむつを毎日変える。
Mさんは看護婦さんや私たち助手の中で一番可愛がられてる。
みんなMさんに話しかける声は一層優しく、明るく、愛情に満ちた若い母のような声だ。
それは他の患者さんに対してえこひいきにも見えるけれど、Mさんの持つ魅力ってのがあって、
ある程度は心理的に仕方のないことかもしれない。
先日、可愛い可愛いと言いながらMさんの顔を撫でたり、髪の毛で遊んだりして、楽しそうにしている看護婦さんも見かけた。
まるでMさんが他の患者さんより幼い、赤ん坊みたいだ。
けれど、時々あまりにも甘ったるい口調で触れ合うのを見ると、どこか腹立たしい。
「Mさん、元気?」
「Mさん、今日も可愛いね」
「Mさん、よく眠れたの?」
Mさんはいつも何を言われても、一つ一つの質問に素早く小さく頷いて反応する。
いつも何を言われても頷き肯定する。
きっと質問への本当の答えはイエスじゃないときもあるはずだけれど。
Mさんが何を考えているのか、いつも本心が気になる。
質問を理解していないけど、話しかけられているのだけはわかっていて、それに答えたいけど頭を縦に振ることしかできないのかもしれない。
それとも、質問も理解してて、本当はノーって言いたいときも、もっといっぱい伝えたいこともあるんだけど、頷くことしかできずに、悲しいときもあるかもしれない。
もしくは、全部理解してるけど、それほど私たちとのコミュニケーションに興味はなくて、本心は伝えられないことは特に悲しくないし、どうでもいいのかもしれない。Mさんは礼儀正しい人で、とりあえずうなずいてくれてるのかもしれない。
私にも、
他のみんなにもするように、うなずいてくれる。
本心が気になる私は、無理して頷いてないかと不安になる。
でも、たとえ嘘だったとしても、人に気を使ってついた嘘を見破られたい人などいるだろうか。
うなずいてくれた、そのサインが本当だと、Mさんは思われたいだろう。
Mさんの頷きに込めたかもしれない気持ちを尊重したい思いから、私はそれを信じることにする。
Mさんが信じさせてくれるから、私は
「そっか」「ウンウン」「ね」っていう言葉が出せて、お話しをまとめられる。
それでもやっぱり不安で、
本当は何を考えてるのかな、本当は今の質問退屈だとおもったかな、などの考えに押されて、私は他の看護師の方のようにそれ以上会話を広げられない。
そしてMさんが本当はお話しする気分じゃないかもしれないときのために、特に話す必要もないのかもしれないとも思い、黙ってみたりもする。
こんな風に私はMさんの思い痛限りの本心を想定して返答の仕方に右往左往している。
それに比べてとある看護師さんは、Mさんのうなずきに対する信頼がもっと厚いように見える。
Mさんはただうなずいただけなのに、そこからたくさんの返答を汲み取ったかのように代弁し、また次の関連した質問を投げかけ、長く会話しているのを見る。Mさんはただ頷きつづける。
「Mさん、楽しいの?」「楽しいのか。そうか。よかったね」「じゃあ〜なの?」「へぇー」
その代弁は、本当にMさんの発するサインを察し、反映してのものなのか。
または、他の看護師さんはもっと長い時間Mさんと過ごしていて、私がまだ見たことないMさんの姿を知っているのか。
それとも、
厳しく言えば、自己愛から生まれるエゴな理想なのか。
というのも、相手からの少ない返答への虚無感、私が感じているような、果たしてMさんは自分の質問をどう思ったかについての不安を埋めるために、一方的に会話を進めている、という可能性がありはしないか。
Mさんがうなずいてくれるから、こちらはMさんの気持ちを想像して、何とでも言えるし、「そうなんだね」とさえいえば、自分の察しは正しかったと締めくくれる。
Mさんとの会話は、キャッチボールではない。
こちら次第なのだ。
こちらが好きな球を投げ、Mさんはそれを、キャッチしてくれるだけ。
キャッチしてくれる。
必ず。
一方通行だからこそ、温かいものであるかは、私たちのMさんへの姿勢にかかっていると思う。
私は、他の看護婦さん同様、Mさんが好きだ。
Mさんに会うと、嬉しい。
Mさんが頷いてくれると、嬉しい。
Mさんも、私を好きだといい。
Mさんも、私に会えて嬉しいと、思っていてくれて欲しい。
Mさんも、私と話すのを楽しいと思ってくれていてほしい。
Mさんが私たちの発するメッセージをわかっていてくれたら、嬉しい。
頷くことしかないMさんの、こちらが投げかけた質問への返答が本当にイエスならなお嬉しい。
そうであって欲しい。
だけど、これはMさんが人として好きな私のエゴだってわかってる。
だからたとえそうじゃなくても、いいんだという姿勢が必要だ。
たとえ形だけであっても、Mさんがうなずき、私のボールを受け止め続けてくれることが、どんなに私の1日を良いものにするか。
Mさんの左手を握ってみたら、強く握り返してくれた。
嬉しくなって、ギュッギュっギュって、リズムをつけて握ってみたら、
同じリズムでギュッギュっギュって握り変えさえれた。
私の心は承認欲求で満たされた。
Mさんを愛おしいと思った。
寝ている時のMさんは、誰よりも大きないびきをかく。
すごく気持ち良さそうにかくから、
見ていて気持ちがいい。
あなたにまた会うのを楽しみに、月曜を待つ。