芦屋のタロット・占星術師 広

 

こんにちは。広です。

 

朝夕すっかり肌寒くなってきた日々ですが、

変わらず毎週楽しみなのは、大河ドラマ『光る君へ』です。

 

物語はすっかり進んで、次回の予告では一条天皇がうっと胸を押さえるシーンが。

 

ああ、いよいよか・・・・驚き

私はこのドラマで1番好きなのは一条天皇なのです。

 

一条天皇を演じる俳優さんの表情演技とカメラワークが大好きです(泣)

 

さて、このお上を観ていると、勝手ながらどうしても思い出す映画があります。

 

『ラマン 愛人』です。

 

(!!すみません!日本映画ですらない。)

 

ラマンに出てくるレオン・カーフェイ演じる華僑の資産家跡取り息子です。

 

この中国人青年は、とにかくやんごとなき生まれのようで、

 

全く働く必要がない。

 

ただ、一族の財産を守るために中継ぎしているかのような立場。そしてそれを自認している。

 

でも、それ故か純粋なんです。

 

まっすぐ人を愛するのです。

 

その人を、17歳くらい歳の離れた主人公の少女(作家本人。自伝的な作品です。)がこう描写するのです。

 

「この人は、愛する事しかできない」

 

・・・・すごくないですか?

この言葉イコールこの映画だと思ってやまないのですが。

 

対する主人公の少女は狡猾さと退廃的な美しさで愛について不問に付すのです。

 

常に飯をガツガツ食べて、お金の話をして、人種差別を含ませニヤニヤと嘲笑うカットがなん度も出てきます。

 

わざと。

 

わざとそのような現実に落とし込んでいるようにも見えるのは、

それが自分だから。

 

世間の目から見た自分はそう映るに違いないと思う自分に合わせるしかない、自分はこのような人間であると自らを虐げなければやっていけないからなのか。

 

いや、本当にそうなのか?その問いに気づくのはもう少し後になってから。

 

複雑な少女の心情。

 

彼女(私たちでもある)の住む世界のやり方で、今を生きるために必死です。

 

タロットで言えば、ワンドもソードもカップもペンタクルも総動員で、

 

いや、生きるためにはカップはさて置きワンドとソードとペンタクルで必死です。

 

偶然にも自分に与えられた場と才で必死に生きて行く。

 

使えるものならなんでも使う。

 

自分とは?に向き合うのはもっと後から、いよいよ自分の心が破綻をきたして初めて気付くことになります。

 

対する中国人青年は、もう働く必要もない、仕事もする気もない、学ぶべき事ももうない、結婚も決められている。

 

一日一日のレベルでは自由だけれども、

 

人生の賽の目は、親が決めている。

 

ワンドもソードもペンタクルももう自ら動くことがないのではないかとさえ思われる人生。

 

お上と似ていませんか。

 

人はどのような人でも、このように寝食が永劫に足りるならば、この中国人青年やお上のようになるのではなかろうかと思ったりもするのです。

 

人は、生き抜く為に様々な力を駆使してここに在り、

 

その人その人のオリジナルな体験をし、感情を揺らして生きている事を味わうのだと思うのですが、

 

その体験の中身が、人によっては如何に食い繋いで行くか?という事もあれば、如何に勝ち抜いて名声をあげるか?という事もあれば、そのどちらももう必要がなくて、如何に愛するか?これ1つ、もうこれしか残っていないという事もあるのではないかとも思うのです。

 

おそらく体験領域が幾つもあるのが一般的なのではないかと思うのです。

どれかの体験領域が思わしく進まなくとも他のもので補填しながら生きて行くのが一般的なのではないかと思うのですが、

 

1つだけ、もうこれ以外何をしても無味乾燥という場に生を受ける、そういう事もあるのではないでしょうか。

 

それだけでしか生きる喜びを見出すことができない人生。

 

そんな特殊な生を受けている人々が、お上やラマンの中国人青年なのではないのでしょうか。

 

「この人は、愛する事しかできない。」

 

その言葉の意味は両義的で、

 

それしかできないという意味もあり、

 

それだけを見ることができるという純粋故の崇高さも感じている深い言葉に思えてなりません。

 

一条天皇も、ラマンの中国人青年も、どのような形にせよ、純粋に愛する事を体験し、その生を全うする事ができた人たちなのだなあと心から尊敬します。

 

そんな事を考えてしまい、次回が来るのが待ち遠しいやら寂しいやらのこの頃です。

 

お付き合いくださいましてありがとうございます。

 

今日もよき一日をお過ごしください!