ノーマル、普通とはいったい何?

 

人によっても、時によっても、場合によっても違う。

今はマスクを付けることが「普通」。

ソーシャルディスタンスが「普通」。

消毒が「普通」。

コロナ前と今では一般的な「普通」が変わった。

 

虐待を受ける子供にとっては、虐待が「普通」になってしまっている。

世間一般では「普通」ではな「異常」でも、その子にとっては「普通」。

 

「普通」が良い、「普通」は不変と思いがちだが、

良い悪いは関係ないし、そして常に変化している。

「普通」は私たちにとって理解しやすかったり、予想ができたりするから、

「普通」は都合が良い。

 

私は「普通」にしがみ付きたくなる。

「普通」でなくなると予想がつかなくなる。

柔軟に、臨機応変に動くより、

型にはまった動きのほうが変化がない方が楽だと思ってしまうからだ。

 

けど、世は常に変化している。私たちも常に変化している。

「普通」なんて本当はないのだ。

「普通」を手放し、常に初心。

期待をせず、その時々に合わせて行動。

固定観念に固執せず、視野を広く、心を広く、受け入れる。

本当はそのほうが楽ではないか。

 

虐待を受ける子供にとって虐待が「普通」だと、大人になってもその「普通」を求めてしまうが、

「普通」を手放すことができれば違う未来が開けるかもしれない。

虐待という極端な例を挙げてしまったが、誰でも子供の時の「普通」が今の「普通」になりがちだったりする。

過去の「普通」を未来に求めてしまう。

けど「普通」という概念がなければ想像もできないくらいの素晴らしい未来が開けるかもしれない。

 

「普通」なんてない。

可能性は無限。未来は無限。

今日の満月は「普通」を手放したいものだ。