さて、日曜日、また、図書館で、宮武外骨「滑稽新聞」を、第30号まで、目を通したところ。

今回、「滑稽新聞」の内容ではなく、その解説の方に、面白い話が、いくつか。

 

 

この「滑稽新聞」の第20号が発行される何日か前、あの田中正造が、天皇に直訴をするという有名な事件が、起こったそうです。

しかし、「滑稽新聞」第20号の中には、この出来事に関する記事は、見当たらなかったよう。

もっとも、上の本には、「滑稽新聞」の全てが収録をされている訳ではないので、省かれた中に、それに関する記事があったのかも知れない。

もしかすると、天皇に関する話なので、他の新聞でも報じられなかったのかとも思いましたが、ネットで調べると、この出来事があった東京では、大騒ぎとなり、新聞の号外も発行されたということ。

 

ちなみに、この時、田中正造は、当然、身柄を拘束されましたが、「狂人が、馬車の前で、よろめいただけ」ということで、不問にされ、即日、釈放されたそうです。

この時、田中正造が持っていた、天皇への直訴状は、あの幸徳秋水が書いたものだそう。

 

田中正造自身は、天皇への直訴は、死ぬ覚悟で、実際、遺書も書いていたそうです。

明治34年(1901)12月10日のこと。

 

この時、田中正造が、何を、天皇に直訴しようとしたのかといえば、「足尾銅山鉱毒事件」です。

これは、日本初の公害事件と言われている。

栃木、群馬の渡良瀬川周辺で起きた公害で、栃木の政治家、田中正造は、地域の農民たちの中心となって、公害問題を追及しますが、農民たちの集団での訴えも、田中正造の国会での訴えも、まともに相手にされず、効果は無かった。

 

そのため、最終手段として、「天皇への直訴」という行動に出たのですが、これも、上手く行かない。

 

足尾銅山の鉱毒問題は、その後も、延々と、続くことになる。

 

ちなみに、当時、内閣で内務大臣を務めていたのが、「原敬」です。

後の総理大臣ですが、この時、原敬は、足尾銅山を経営している古河鉱業の重役でもあったそうです。

 

もう一つ、面白い解説は、「大阪毎日新聞」と「大阪朝日新聞」の、売り上げ競争の話。

 

この「大阪毎日」と「大阪朝日」は、ライバル関係にあり、「大阪毎日」が、売り上げ一位で、「大阪朝日」が、売り上げ二位だったそう。

そのため、「大阪朝日」は、何とか、「大阪毎日」の売り上げを抜こうと、あの手、この手を、繰り出していたそうですね。

大がかりなイベントを開いたり、有名芸能人に、宣伝をしてもらったり。

これに対して、「大阪毎日」は、「新聞なら、記事の内容で勝負をしろ」と、「大阪朝日」を批判。

この両者の批判合戦は、しばらく、続いたようです。

 

この「大阪毎日」「大阪朝日」共に、「滑稽新聞」の攻撃対象でもあった。

そのため、「滑稽新聞」では、この「大阪毎日」「大阪朝日」の売り上げ競争を揶揄する記事が掲載されていました。

 

ちなみに、先に挙げた「原敬」は、一時期、「大阪毎日」の社長を務めていた。

足尾銅山鉱毒事件のあった頃には、「大阪新報」の発行者でもあったよう。

原敬は、足尾銅山鉱毒事件に対して、何を考え、何をしていたのか。

古河鉱業の重役だったのなら、責任がある訳で、しかも、当時は、現役の大臣でもあった訳なのですが、この鉱毒問題に、何か、対処をしようとしたのでしょうか。

関心のあるところで、また、調べてみようと思います。

 

さて、「滑稽新聞」の中では、気になる記事が、一つ。

 

それは「樋口一葉日記」の連載です。

 

なぜ、「滑稽新聞」の中で、「樋口一葉日記」が、連載されたのか。

やはり、当時、樋口一葉は、世間で、広く人気があったということなのでしょうかね。

 

もっとも、「滑稽新聞」の中にある「樋口一葉日記」の内容は、創作のようです。

 

連載の最初に、「樋口一葉が亡くなったが、日記を残しているということ。しかし、その日記は、ある人が保管をしていて、公開をされない。もし、日記の内容が公開されれば、かなり、プライベートなことも書かれているので、評判になるだろう」という趣旨の文章があり、それに続いて、「樋口一葉日記」が、始まります。

 

やはり、女流作家ということで、生前、どのような男と交際があったのか。

今で言うところのゴシップのようなものに、関心が持たれていたのでしょうかね。

 

ちなみに、こちら、本物の「樋口一葉日記」です。