今日は、もう一つの「六十六部廻国供養塔」を見るため、倉敷に。
それがあるのは、美観地区の東になります。
スーパー「ニシナ」の羽島店の駐車場に車を置き、交差点を渡って、西に歩く。
まず、見つけたのが、法界地蔵。
ここのT字路を、北に歩きます。
美観地区の東に接する場所で、美観地区の雰囲気を残した町並みが続く。
しばらく歩くと、このような場所が。
倉敷八十八カ所の赤い旗がありますね。
こちらは「まがり(魔狩)大師堂」ということ。
観世音菩薩立像と、弘法大師坐像が、中に収められているそうです。
倉敷四国八十三番・一宮寺、と言うことになるそう。
この「まがり大師堂」の隣に「玉泉寺跡」と書かれた看板があります。
それが、こちら。
看板と共に並ぶのは、歴代住職のお墓だそう。
さらに、北に進むと、宝篋印塔があります。
宝篋印塔の他にも、いくつかの石塔が建てられていますが、その中に「野上芳太郎供養塔」と書かれたものがありますね。
この「野上芳太郎」とは、誰なのか。ネットで調べてみる。
明治30年2月4日、伊予国早風郡の海で、汽船の「三光丸」と「尾張丸」が衝突し、沈没。
この事故で、乗っていた、60人が、亡くなった。
野上芳太郎は、その中の一人で、享年、20歳。
この野上芳太郎は、備前国上道郡金岡村の出身で「故衣の行商」だったということ。
つまり、古着の販売員と言ったところでしょうかね。
野上芳太郎は、倉敷を行商の拠点としていたそうで、縁者によって、この供養塔が建てられたのだろうということ。
そして、この宝篋印塔を、左に入ったところに、「六十六部廻国供養塔」があります。
それが、こちら。
お堂の中に収められているのは、千手観世音菩薩立像と、弘法大師坐像。
倉敷四国81番・白峰寺、と言うことになります。
このお堂の左に、小さな石柱が、いくつか、見えますよね。
こちらが、「六十六部廻国供養塔」になります。
「奉納六十六部供養」と中央に書かれています。
他の文字は、読み取れませんでしたが、ネットの情報では「享保十乙巳年八月十七日」と書かれているそうです。
これは、1725年となる。
この辺りにある六十六部廻国供養塔の中では、古い方ではないでしょうか。
ちなみに、「六十六部廻国供養塔」の裏側にも、一枚の石が置かれています。
こちらも、文字は、読み取れませんでしたが、ネットの情報では、「〇伏 吉三 〇〇 〇平 〇〇 千代吉」と、名前が刻まれているようです。
六人の名前と思われますが、やはり「六十六部」の廻国と関係がある人たちの名前なのでしょうか。
この六人が、六十六部、日本廻国を終えた記念に、この廻国供養塔を建てた、と、言うことなのでしょうかね。
ちなみに、こちらは、別の道を歩いて駐車場に戻る途中に見つけたもの。
観音菩薩像だそうです。
色々と、良いものがありますね。







