パソコン、そして、ネット、そして、ハッキングをテーマにした映画が「ウォーゲーム」なら、「仮想現実」を、最初に、本格的に映画で表現したのは、「マトリックス」ではないですかね。

1999年公開。

 

 

キアヌ・リーブスが演じる主人公「アンダーソン」は、昼間は、会社員、夜は「天才ハッカー」として、生活をしている訳ですが、実は、この、アンダーソンが生きている世界は「仮想現実」なんですよね。

現実のアンダーソン本人は、他の多くの人間たちと一緒に、コンピューターのエネルギー源とされていて、カプセルの中で眠らされ、「仮想現実」を、見せられていたということ。

 

このまま「仮想現実」の中で、生き続けるのか。

それとも、現実の世界で、人間を支配するコンピューターを倒し、人間自身の世界を、取り戻すのか。

 

特別な力を持った「救世主」として、アンダーソンは、モーフィアスをリーダーとするレジスタンスに助けられ、真実を知ったアンダーソンは、人類のために、「仮想現実」の中で、コンピューターと戦うことになる。

ちなみに、この「マトリックス」は、三部作ですが、この第一作が、とても面白かったのに対して、二作目は、それほど、面白いとは思わなかったので、三作目は、見てないんですよね。

 

さて、この「仮想現実」というもの。

 

アンダーソンにとって、この「仮想現実」もまた、「現実の世界」に違いない。

そもそも、「仮想現実」と、「実際の、現実の世界」との差は、どこにあるのでしょう。

世界を見ている本人にとっては、その違いを見つけることは、不可能なのではないでしょうか。

 

例えば、今、自分が見ている世界。

この世界は、「真実の世界」なのかと聞かれれば、それを証明する方法がない。

証明をする方法がないということは、今、自分が見ている世界が、もし「仮想現実」だったとしても、自分にとっては、その世界が「真実の世界」に違いない。

それで、何の不都合も、不自由もないということになる。

 

例えば、量子論によれば、「この世界は、二次元の膜の上に映し出されたホログラムのようなものかもしれない」という考えがあるそうです。

それが、具体的に、どういうことなのかは、よく分からない。

しかし、もし、それが、真実なのだとすれば、今、自分は、ホログラムの中に生きている、と、言うことになる。

 

今、自分が、「現実世界」の中に居るのか、それとも「仮想現実」の中に居るのか。

 

証明の出来ない話は、さておき、人間が、本当に、真実として「仮想現実」を体験するには、「マトリックス」の登場人物たちのように、人間の「脳」を、直接、「サイバー空間」に繋げる必要があるのでしょう。

これは、あの「攻殻機動隊」から、ヒントを得たのでしょうかね。

 

人間の脳を、ネットに、直接、繋げると、どうなるのか。

それは、映画「攻殻機動隊」の続編である、映画「イノセンス」に、よく描かれている。

 

 

 

この映画「イノセンス」の中で、主人公の「バトー」は、敵の脳を、ハッキングして「仮想現実」を見せて、相手を翻弄するのと同時に、自分の脳が、敵に、ハッキングされ、「仮想現実」に翻弄されることになる。

本人には、この、強制的に見せられた「仮想現実」と、「実際の現実」との区別がつかない。

 

もし、人間の脳を、直接、ネットに接続することが出来るようになれば、様々なことを体験し、様々なことを学べるようになるかも知れない。

映画「マトリックス」の中で、アンダーソンは、カンフーをマスターし、そして、超人的な力を発揮することが出来るようになりますが、同じことが、自分にも出来るかもしれない。

もしかすると、自分が、大谷翔平として、メジャーリーグの試合を体験することも可能でしょう。

そして、それは、自分自身にとって、「真実の世界」と、何ら、変わりがない。

 

しかし、人間は、脳をネットに繋げなくても、日常的に、現実世界と区別のつかない「仮想現実」を体験していますよね。

それは、寝ている間に、見る、「夢」というもの。

 

この「夢」もまた、見ている間は、「真実の世界」「現実の世界」と、区別がつかない。

 

「夢」の中で体験していることは、その時、確かに、自分にとって、「現実世界」と、何ら、変わりない。

 

この「夢」をテーマにしているのは、映画「インセプション」でしょう。

以前、一度、見たことがあるのですが、何だか、何をしているのか、よく分からなかった印象。

 

 

また、有名なところでは、「邯鄲の夢」ですよね。

 

主人公の「廬生」は、旅の途中で出会った「呂翁」という人物に貰った枕で、夢を見る。

人生の中で、様々な経験をし、立身出世も出来て、幸せな人生を送った後、老いて、亡くなりますが、目が覚めると、ほぼ、時間は過ぎていなかった。

と、言うお話。

 

これは、結局のところ、「人生とは、夢のような儚いものだ」、と、言うことを表しているのでしょう。

しかし、逆に言えば、「夢もまた、現実と同じ」と、言うことにもなるのではないかと思うところ。

「夢」を見ている間の廬生にとって、その「夢」が、真実の人生に違いないはず。

もし、そのまま、目覚めることなく、亡くなったとすれば、廬生は、幸せな人生の中で、死ぬことになるのではないでしょうか。

 

しかし、この「夢」というのは、不思議ですよね。

 

なぜ、見たことも無い景色が、リアルに体験できるのでしょう。

全く知らない景色の中で、自分が、生きて、生活をしている。

もし、このまま、永遠に「夢」が続くとすれば、この「夢」の世界が、自分自身にとって、「現実の世界」に、違いない。

 

僕には、繰り返して見る、同じパターンの夢が、いくつか、あります。

 

一つは、「時間に間に合わず、焦る」という夢。

 

朝、学校に行く時間が、近づいている。

まだまだ、余裕があるので、のんびりとしている。

しかし、時間が過ぎるにつれて、「あれを、しなければ」「これを、しなければ」と、次々と、やらなけらばならないことを思い出す。

そして、あれも、これも、やらなければならないということで、段々と、学校に行く時間が迫り、「このままでは、学校に間に合わない」「どうしよう、どうしよう」と、焦りまくるという夢。

 

一つが、「すでに、卒業をしている学校に、通っている」という夢。

 

普通に、学校に行き、教室の中で、授業を受けている。

しかし、「あれ? 僕は、この学校は、すでに卒業しているはずだけどな」と、感じる。

卒業しているはずなのに、こうして、授業を受けていても、良いのだろうか、と、不安になる。

しかし、何の問題もなく、時間は、そのまま、過ぎて行く、と、言う夢。

 

一つは、「車が、無くなる」という夢。

 

用があり、車に乗って、どこかに出かける。

そして、車を駐車場に止め、用事を済ませる。

が、用事を済ませて、駐車場に戻ってくると、車が無い。

「車が、盗まれてしまった。またか。これで、何度目だ。また、車を買わなければならないのか」

と、色々t、焦りながら、考える。

夢の中では、車を盗まれるのは、初めてではない。

何度も盗まれて、何度も、車を買っているという記憶がある。

と、言う夢。

 

何度も、繰り返して、同じパターンの夢を見るということは、自分にとって、何か、この夢に、意味があるんだろうと思うのですが、何でしょうね。

一体、上に挙げた夢に、どういう意味があるのでしょう。

 

他にも「空を飛ぶ夢」など、時折、見ることがある。

 

僕の場合、「空を飛ぶ」と言っても、鳥のように、大空を飛ぶのではなく、ジャンプの延長のような感じで、走って、ジャンプをすると、そのまま、空中を進んで行く、と言った感じの夢。

この夢では、飛んでいる感覚というのが、なかなか、心地良いもの。

本当に、現実の世界で、このように、空を飛ぶことが出来ると、良いのですけどね。