昨日の日曜日、また、図書館に出かけて、宮武外骨の「滑稽新聞」の第12号まで、目を通しました。

 

 

注目の記事は、「星亨」の殺害事件。

 

明治34年(1901)6月21日、政治家の星亨が、伊庭想太郎という人物に、殺害されます。

この「星亨」とは、何者か。

 

嘉永3年(1850)、江戸の築地で、左官の子として生まれます。

一家で、横浜に転居後、蘭方医に弟子入り。

幕府が設立した横浜英学所に入り、英語を学ぶ。

ここから、星亨は、英語を生かして活躍。

明治7年(1874)1月には、横浜税関長に抜擢されます。

同年9月、太政官から、英国留学を命じられ、英国の法廷弁護士の資格を取得。

明治11年(1878)、司法省付付属代言人(後の弁護士)の第一号となる。

 

明治15年(1882)、自由党に入党。

弁護士と共に、政党政治家としての活動を開始する。

藩閥政治を批判し、政党政治の確立に邁進する。

明治21年(1888)、立憲自由党に参加。

明治25年(1892)、第二回衆議院議員総選挙で当選。

陸奥宗光の下で、活躍する。

明治33年(1900)、立憲政友党に参加。

伊藤博文の信頼を得て、第四次伊藤内閣で、逓信大臣として初入閣。

 

星亨の政治手法は、かなり強引で、「押しとおる」とも言われたそうです。

また、地方に利益誘導をして、党勢を拡大するという手法は、この星亨が、はじめたことだそう。

 

また、星亨には、常に、汚職疑惑が、ついて回っていたようですね。

しかし、星亨自身は、お金には関心が無く、汚職を行っていたのは、星亨の影響下にあった人たちで、星亨が、亡くなった時には、財産というものは無く、わずかな借金があっただけということのよう。

 

この星亨が、なぜ、殺害されなければならなかったのか。

それは、直前に起こった、東京の市電の認可に関する贈収賄の疑惑のよう。

当時、星亨は、東京市会(今で言うところの、東京都議会)の議長だった。

「贈収賄疑惑の人間が、市会の議長をしているのは、けしからん」

と、考え、伊庭想太郎は、星亨を、持っていた刃物で刺殺をした。

 

当然、当時、各新聞が、この「星亨殺害事件」を、大きく報道したことでしょう。

しかし、「滑稽新聞」の内容は、他の新聞とは、違っていたのだろうと思います。

 

その記事の中で、個人的に注目したのは、東京市会から、伊庭想太郎を取り押さえた者に報奨金が出て、亡くなった星亨に葬式代が出るという話。

これについて「滑稽新聞」では、「こんなことに税金を使うなんて、東京の人には、気の毒なことだ」と書かれていました。

安倍元総理が殺害された時にも、「国葬」にするのかどうか、ということが問題になりましたよね。

つまり「国葬」にするということは、莫大な税金が、個人の葬式のために使われるということで、個人的には、大きな問題があるのではないかと思っていましたが、結局、「国葬」は、強行された。

宮武外骨もまた、同じ考え、と、言うことでしょう。

 

更に、伊庭想太郎を取り押さえた人物について、「取り押さえた」のではなく「取り押さえさせてやった」と、『』で注釈がついていましたが、これは、確かに、伊庭想太郎は、「取り押さえられた」のではなく、「大人しく、周囲に従った」のだろうと思います。

なぜなら、この伊庭想太郎は、戊辰戦争で活躍をした「伊庭八郎」の弟で、「心形刀流」の第10代の宗家。

つまり、並の人間ではなく、腕の達つ剣客だった。

素人が、簡単に、「取り押さえる」ことが出来る相手ではない。

 

また、星亨が殺害されたのは、汚職疑惑で、ちゃんとした処分をしなかったからだと、司法省を批判している。

これもまた、もっともでしょう。

 

さて、この「星亨殺害事件」に関連しての話でしょう。

別の記事として「政治家の死に際」に関する記事が、掲載されていました。

これは、今の感覚では、とても不謹慎ということになるのでしょうが、書かれていることは、面白い。

当時の有名政治家たちが、「あの時、死んでおけば良かったのに」というニュアンスで、紹介されています。

 

例えば、伊藤博文。

 

伊藤博文は、大の「女好き」で有名。「滑稽新聞」の中でも、伊藤博文の女性関係を追った連載記事が掲載されていますが、恐らく、当時、有名人、金持ちが、女性関係が派手なのは、当たり前で、多くの人が、問題にすることではなかったのでしょう。

記事では、伊藤は、今後、梅毒にでもなって苦しむのではないかと書かれている。

女遊びが過ぎる、と、言うことでしょう。

 

次に、板垣退助。

 

この記事は、「滑稽新聞」の中でも、最も、有名な記事の一つではないですかね。

明治15年(1882)、当時、自由党の党首だった板垣退助は、東海遊説旅行の途中、岐阜で、刺客に襲われることになる。

板垣は、生涯で、6回、暗殺されかかっているそうですね。

この事件は、3回目の事件で、板垣退助暗殺未遂事件の中で、最も、有名なもの。

この時、板垣退助が「板垣死すとも、自由は死せず」と言ったのは、有名です。

そして、「滑稽新聞」では、「自由は死んだが、板垣は生きている」と書かれている。

 

意外だったのが、山県有朋。

 

この山県有朋に関して、「滑稽新聞」では、「毒にも薬にもならないから、別に、生きていても良い」と書かれています。

当時、一般の人たちにとって、山県有朋という政治家は、そういうふうに見えていたのでしょうかね。

 

他にも、大隈重信や、谷干城などについても書かれている。

 

さて、政治を離れて、面白いと思ったのは「詐欺広告日誌」というもの。

 

「新聞は、広告料さえ払えば、どのような広告でも掲載する」ということを、「滑稽新聞」は、批判しています。

そして、恐らく、他の新聞に掲載されている「詐欺」と思われる広告を一覧にして、掲載しているのでしょう。

 

さて、続きは、また。