国道30号線と、笹ヶ瀬川が交差する辺りを、何か、面白いものはないかと、散歩してみました。
すると、ありましたね。
まずは、駄菓子屋です。
こちら、駄菓子屋さんの駐車場です。
今でも、こういう駄菓子屋さんが、残っているんですね。
こちら、駐車場に隣接する駄菓子屋さんです。
残念ながら、営業時間ではありませんでした。
今の子供は、こういう駄菓子屋さんに通って遊ぶという経験は、なかなか、出来ないのではないですかね。
僕が子供の頃は、50円、100円ほどを握って、駄菓子屋に行って、クジを引くのが楽しみだった。
そして、しばらく歩くと、「藤田錦干拓百周年」の記念碑がありました。
このあたりもまた、干拓によって出来た地域です。
その傍らには、「地神」と「水神」がありました。
こちらは、古いもののようですね。
そして、近くに、このような神社のような建物が。
しかし、鳥居は、見当たりません。
二本の石柱の手前の一本には、嘉永2年の年号があったようです。
石灯籠に刻まれた文字は、読めませんでした。
お百度石も、ありました。
建物の隣には、このようなものが。
何が、祭られているのでしょうね。
近くには、このようなものが。
左の二体は、お地蔵さんでしょうが、右の一体は、見た感じ、お地蔵さんではないようです。
何の仏様でしょう。
さて、この裏に、このような掲示板がありました。
備前備中境界石の説明版です。
干拓が進む前の児島湾は、かなり広大で、江戸時代には、漁民の激しい縄張り争いがあったことは、以前、ある本で、読みました。
特に、備前国児島の八浜の漁民たちと、備中国妹尾の漁民たちとの漁場争いは、揉めに揉めて、最終的に、江戸に行き、幕府の裁定を扇ぐことになります。
幕府からは、役人が派遣され、現地を見て、裁定を下すことになる訳ですが、この境界石は、その時の裁定によって、置かれたものなのでしょうかね。
これが、その境界石。「従是東南備」と書かれているのが見えます。
恐らく、この下には、「前国」の文字が隠れていて、「従是東南備前国」ということになるのでしょうかね。
かなり、新しい石のように見えますが、どうでしょう。
さて、昔、恐らく、20年ほど前に、何度か、この辺りを通った時に、古い、醤油屋の看板が出た建物があったはずなのですが、もう、無くなってしまったのか、見当たらなかった。
残念です。