雑誌「歴史街道」の今月号に、面白い記事が、一つ。
それは、「皇統護持作戦」について。
昭和20年8月15日。
玉音放送が流れ、国民は、戦争に負けたことを知る訳ですが、正式に、戦争が終わったのは、戦艦ミズーリの艦上で、降伏の調印が行われた9月2日ということになる。
ここから、日本は、戦勝国である連合国、アメリカによる占領下に置かれる訳ですが、一部の人が、大きく懸念していたのは、「国体の護持」が、認められるのかどうか。
つまり、日本は、これから先も、「天皇」による支配が続くのかどうか。
陸軍大臣の阿南惟幾は、ポツダム宣言の受諾には反対だった。
なぜなら、「国体の護持」が、保証されていないため。
しかし、天皇の決断で、ポツダム宣言の受諾が決まると、阿南惟幾は、切腹をして自害。
そして、阿南惟幾を支持する一部の将校は、クーデターを企て、皇居を守護する近衛師団を動かそうとしますが、これも、失敗に終わる。首謀者は、自害。
実は、この「国体の護持」が、占領下で保証されていなかったのは事実で、東京裁判が始まると、一部では、「天皇を訴追しろ」という声も上がっていたそう。
万が一、連合国が、この、日本の「国体」を変えようとした場合、何としても、それは、阻止しなければならない。
そこで、動き出したのが、陸軍中野学校を卒業した人たち。
陸軍中野学校の前身は、昭和13年(1938)に、東京九段に設置された防諜研究所。
この陸軍中野学校は、諜報、防諜という特殊な仕事を行う人物を養成する学校です。
生徒は、純粋な軍人ではなく、予備士官学校から集められたそう。
この予備士官学校は、日中戦争での将校不足を補うために設置されたもの。
一般の徴募兵の中から、優秀な者を選抜して幹部候補生とし、必要な教育を施すことになる。
彼らの中には、一般の社会人としての経験をした者が多く、純粋な軍人よりも、特殊な任務に就くには、向いていると考えられたそう。
この防諜研究所では、入学してから、髪を伸ばすように命じられ、服装も、私服。徹底して、「軍人らしさ」を抜くための教育が行われたそうです。
防諜研究所は、その後、後方勤務要員養成所と改称。場所も、九段から、中野に移る。
太平洋戦争終結までの約7年で、3千人が、育成されたそう。
この陸軍中野学校を卒業したメンバーが中心になって「皇統護持作戦」が、行われることになる。
この皇統護持のために選ばれたのは、北白川宮の道久王です。当時、まだ、10歳にならなかった。
この道久王を匿う作戦を発案したのは、当時、陸軍次官秘書だった広瀬栄一中佐。
広瀬は、陸軍中野学校の出身では無かったそうですが、フィンランド公使館附武官補佐官としてソ連に対する情報活動に従事し、参謀本部で暗号解読任務に就くなど、情報将校としての経験があった。
また、広瀬は、道久王の父と、陸軍士官学校、大学校の同期でもあった。
この広瀬の元を、陸軍中野学校の一期生、久保田一郎少佐が訪ねて来た。
それは、降伏に反対し、中野学校の出身者だけでも、占領軍と戦うという決意を示すため。
しかし、広瀬は、久保田を説得し、自身の考えた皇統保持作戦への協力を求める。
そして、久保田は、それに賛同。
実は、広瀬には、陸軍中野学校の卒業生たちを、地方に遠ざけたいという意図もあったようです。
同じ、陸軍中野学校の一期生、猪俣甚弥少佐が、参謀本部ロシア課長の白木末成大佐に話した内容によると、もし、天皇の身辺に何かがあった場合、全国の中野学校の卒業生たちが、一斉に蜂起し、最後の一人まで、占領軍を相手に戦うという計画もあったそうです。
まず、道久王を匿ってもらう場所として、新潟県六日町の今成拓三という人物の家が選ばれる。
今成拓三は、地元の名士で、家業は、薬局。更に、ハム工場の経営も手がけ、食糧不足の時代に、道久王を匿うのに、うってつけと考えられた。
久保田は、8月26日、新潟の今成家を訪ねる。
しかし、今成は、久保田の話を断った。
理由は、すでに、ビルマの元国家元首であるバー・モウを、匿っていたため。
バー・モウは、当時、イギリスの植民地だったビルマの独立運動家で、日本軍が、ビルマを占領した時に、国家元首として擁立された。
その後は、日本に、協力的に活動をしていたそう。
そのため、日本が、戦争に負けると、バー・モウは、日本に亡命して来ていた。
しかし、連合国に降伏をした日本政府にとって、バー・モウは、厄介な存在でもあり、受け入れはしたものの、放置されていたということ。
久保田は、このバー・モウを匿うことにも、協力を申し出る。
以後、皇統保持作戦を「本丸工作」、バー・モウを匿う作戦を「東工作」と呼ぶことになる。
猪俣は、当初、この「東工作」には反対だったが、日本に協力をしてくれた人を、裏切る訳には行かないと、久保田に説得され、猪俣は「本丸工作」の責任者となることで妥協。
猪俣は、広島に向かうことになる。
それは、原子爆弾によって壊滅した広島の状況を利用するため。
猪俣は、道久王は、両親が、原子爆弾で亡くなった孤児ということにして、戸籍を取得しようとする。
そして、道久王を、半年ほど広島で一般庶民として生活させ、生活に馴染んだところで、上京させようと考えていた。
猪俣は、道久王が、沖縄出身で、広島に徴用された男の息子として、役所に届け出をする。
しかし、猪俣自身、自分の身分を明かすことが出来ず、戸籍の取得は、綱渡りだったようです。
しかし、この皇統護持作戦は、「東工作」の方から、破綻をする。
イギリスの調査の結果、外務大臣秘書官の北沢直吉が、バー・モウを日本に連れて来たことが発覚。
昭和21年(1946)1月8日、北沢が、出頭を命じられ、バー・モウの居場所が発覚。
これを受けて、外務省は、バー・モウに、出頭することを説得。当然、バー・モウは、それに応じなかったのですが、日本から脱出させると騙して東京に連れ出し、そこで、広瀬らと共に、逮捕された。
これをきっかけに、久保田が逮捕され、2月には、猪俣が逮捕される。
そして、彼らは、巣鴨拘置所に入れられる。
しかし、その理由は、「日本人は、第三次世界大戦を計画し、将校や官僚なども参加し、大組織となっている」という荒唐無稽なもの。
これは、バー・モウがついた嘘を元にしたものだった。
彼らは、厳しい尋問を受けましたが、国際情勢の変化から、バー・モウは、7月に釈放され、中野学校の卒業生らも、8月には、釈放された。
彼らは、「皇統護持作戦」を否定し続け、計画は、発覚することはなかったが、失敗に終わることに。
しかし、彼らが心配をしていた「国体」には、結局、連合国は、手を出さなかった。
やはり、「天皇制」は、当時の日本の中に、深く、根付いていて、それを変えることは、日本の中に、大きな混乱をもたらす可能性があると、アメリカが考えた、と、言うことなのでしょうね。