宮沢賢治が、法華経を、深く信仰し、宮沢賢治の作品は、この法華経の教えを、物語にしたものと言われていますが、だとすれば、宮沢賢治の作品を理解しようと思えば、まず、法華経の内容を理解しなければならない訳で、これが、なかなか、難しい。

個人的に、仏教に関することには、色々と興味があり、色々と、本を読んでいるのですが、この法華経に関するものは、どうも、理解をすることが出来ないし、読んでいても、ピンと来ない。

そのため、どうも、途中で、挫折をしてしまう。

 

法華経は、仏教の数多くの経典の中で、最も、重要なものと言われているようですね。

天台宗では、この法華経を、最も、重要としているようで、それは、日蓮宗も同じ。

特に、日蓮は、南無妙法蓮華経という題目を唱えることで、この法華経信仰を、身近なものにした。

 

宮沢賢治が生まれたのは、明治29年(1896)8月。

宮沢政治郎の長男として生まれる訳ですが、この宮沢賢治の生まれた宮沢家は、浄土真宗の門徒だった。

幼少の頃から、浄土真宗の教えに親しみ、賢治、16歳の時には、父への手紙に「歎異抄の第一項を以て小生の全信仰と致し候」と書かれているそう。

つまり、賢治もまた、当初は、浄土真宗の熱心な信者だった訳ですが、18歳の時に、父と同じ浄土真宗の門徒である高橋勘太郎という人物から貰った赤い表紙の法華経の本を読んで、賢治は、衝撃を受け、熱心な法華経の信者となる。

ちなみに、この法華経の本を編纂したのもまた、浄土真宗の僧侶、島地大等という人物。

つまり、宮沢賢治は、浄土真宗から改宗をしようと思って、法華経に接した訳ではない。

恐らく、同じ、仏教の教えの一つとして、周囲の人は、賢治に法華経を渡したのでしょう。

そこに、浄土真宗から、日蓮宗、法華経の信仰に、改宗させようという意図があった訳ではない。

 

そもそも、この法華経が、どのようにして生まれたのか。

 

元々、釈迦の教えは、一人一人が、学んで修業をし、理解をしなければならないもので、それは、今では、小乗仏教と呼ばれますが、これは、上座部仏教とも呼ばれ、後者の呼び方の方が正しいようで、小乗仏教という言葉は、大乗仏教に対して、生まれた言葉。

この大乗仏教が生まれたのは、紀元1世紀前後。

釈迦の教えは、修業をした人、学んだ人だけではなく、全ての人を救うことが出来るものだという考えから生まれたもの。

こ大乗仏教の登場は、当然、上座部仏教との対立を生む訳ですが、この対立を回避するべく、幅広く、仏教の教えをまとめて、生まれたのが、この法華経ということになる。

ちなみに、法華経は、正式には、妙法蓮華経と言います。

そして、現在、日本で読まれている法華経は、406年に、中国で鳩摩羅什が翻訳をしたもの。

 

法華経は、とても長い経典で、日本では「八巻二十八品」に分けられるそうです。

その内容は、お釈迦様が、晩年に、古代インドのマガダ国首都王舎城の霊鷲山で、大勢の弟子を前に行われた説法を記録したという形式になっている。

個人的に、これまで、法華経に関する本を、いくつか手にした印象では(どれも、途中で、挫折したのですが)、世界観が複雑で、まず、それを、全て、理解をするということが困難。更に、内容は、具体的な事例となっていて、その意味を、端的に捉えるということが難しい。そのため、「法華経とは、何だ」と言われても、それを、分かりやすく、具体的に答えるということが出来ない。だから、法華経と聞いても、ピンと来ない。

法華経と聞いても、ピンと来ないので、これまで、日蓮、日蓮宗にも、全く、興味を持って来なかった訳ですが、やはり、宮沢賢治を理解するためには、法華経の知識が必要。

と、言うことで、この本を読んでみることにしたところ。

 

 

しかし、この本に書かれている法華経の説明もまた、僕には、よく分からないし、ピンと来ない。そのため、以下、僕の書く法華経の解釈には、間違いもあるでしょう。

 

どうも、法華経という経典は、「現実、そして、この世が、素晴しい世界であるということを肯定する」という教えのようですね。

浄土宗の系統の教えでは、この世は、苦難に満ちていて、穢れたものでもある。そのため、阿弥陀仏にすがることによって、浄土に生まれ変わろうという解釈になっている。

また、禅宗の系統では、この世の、苦難、穢れの中から、正しいものを見る感性を身に付けるために「無」の境地、そして、「悟り」を得ることを重視する。

しかし、法華経は、今の現実、そして、この世は、素晴しいものであると説く。

そして、この世、現実を、素晴しいものにするために、一人一人が、仏にならなければならないし、そもそも、人とは、仏のようなものなのだと説いているようです。

日蓮宗は、現世利益を求める宗教だという話を、昔、どこかで見た記憶があります。

つまり、「南無妙法蓮華経」と唱えることは、「現世利益」を求めること。

それは、恐らく、「より良く生きたい」という欲求から生まれるものでしょう。

来世で、浄土に生まれるよりも、現世で、より良く生きたいということ。

 

個人的に、疑問に思ったのは、なぜ、宮沢賢治は、法華経に、深く、帰依しながら、出家をしなかったのか、と、言うこと。

宗教に関心を持ち、宗教の教えを実践し、世の中に広めたいと思うのなら、まず、考えることは「出家をする」ということではないでしょうか。

しかし、宮沢賢治は、そういう道は、選ばなかった。

 

実は、宮沢賢治は、一時、出家に近い行動を取っているようですね。

それは、東京の上野で、国柱会という団体に参加をしたこと。

この国柱会とは、元日蓮宗の僧侶、田中智学によって組織された団体で、「純正日蓮主義」を唱える法華宗系在家仏教団体だそうです。ちなみに、戦前の右翼に大きな影響を与えたとか。

宮沢賢治は、ここで、熱心に、法華経の布教活動をしていたようですが、理事の高知尾智耀という人物から、賢治が、詩や小説を書くのが得意だと知り、その作品によって、法華経の教えを世間に広めるようにとアドバイスを受けたよう。

そもそも、この日蓮主義というのは、自分の持った能力を使って、社会に貢献することを信仰の証しだと考えるそうですね。

だから、在家の団体が、宗教団体ということになるのでしょう。

そして、宮沢賢治もまた、在家の人でありながら、法華経の思想を、実践しようとし、作品の中に、その法華経の思想を込めた、と、言うことになる。

 

宮沢賢治は、多才な人で、まさに、ありとあらゆる事に、有能だったという印象。

そのために、詩や、小説を書く以外にも、様々なことを手がけることになる。

宮沢賢治の生き方を見ていると、まさに、「利他」ということになる訳ですが、そこには、大きな矛盾もあったようですね。

それは、宮沢賢治の生まれた家が、その土地では、かなり裕福な家だったということ。

 

宮沢賢治の父、政治郎は、質屋と古着商を営み、かなり裕福で、土地の名士だった。

そして、宮沢賢治は、その長男でもある。

そして、周囲の人たちは、ほとんどが農民で、当時、東北の農家というのは、かなり貧しいのが普通だった。そのため、賢治がしていることを、「金持ちの道楽だ」と見る人も多かったようです。

やはり、宗教は、貧しい人を助けるもの。そして、そのためには、自分もまた、貧しさの中に、身を置かなければならない。

賢治は、裕福な家の跡取りではなく、貧しい一人の農民として生きようとする訳ですが、それは、上手く行かなかった。

 

法華経の教えが、「この現実こそ、素晴しいものだ」ということで、賢治は、農民を中心にした、自分の理想郷を作ろうと行動する訳ですが、これもまた、上手く行かなかった。

そして、賢治は、病に倒れることになる。

 

賢治は、幼い頃から、命にかかわるような重い病気を、何度か、経験しているようで、これもまた、法華経信仰に、深く、関係しているのでしょう。

もし、賢治が、何の病気もなく、健康そのものの身体だったとしたら、宗教というものに、これほどの関心は持たなかったのかも知れない。

 

宮沢賢治は、亡くなる時に、父に「国訳妙法蓮華経」一千冊の発行と配布を依頼したそうです。

また、それ以前に、死を覚悟して書かれた遺書の中には、「自分の亡くなった後は、信仰に基づかなくとも南無妙法蓮華経と題目を唱えて、自分を呼んでくれ」と書かれているということ。

まさに、宮沢賢治は、法華経と共にあったということ。

 

大正15年3月31日、29歳の時に、花巻農学校の教師を辞めた宮沢賢治は、自身の理想とする場所を作ろうと、私塾を立ち上げます。

後に「羅須地人協会」と名付けられるもの。

自ら、農民となり、地元の若い農民たちに、農学の知識と芸術論を無償で教え、そこで、農民芸術を創造しようというもの。

その決意が「農民芸術概論」に書かれている。

 

この「農民芸術概論」の序論「われらはいっしょにこれから何を論ずるか」に付随する文章。

 

おれたちはみな農民である

ずいぶん忙しく仕事もつらい

もっと明るく生き生きと生活をする道を見つけたい

われらの古い師父たちの中にはそういう人も応々あった

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直感の一致において論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか

新たな時代は世界がひとつの意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福をたずねよう

求道すでに道である

 

この文章を読むと、宮沢賢治が、生活、仕事、宗教、科学、あらゆるものが一つとなり、世界の全てを幸福に導こうという考えが、よく分かる。

 

しかし、宗教というものは、対立を生む原因にもなりますよね。

宮沢賢治自身、浄土真宗を信仰する父と、宗教的に、強く、対立をしていたよう。

しかし、父と賢治の仲は、悪かった訳ではない。

 

宮沢賢治は、結局、経済的には、父の援助を受け続け、自立をすることが出来なかったということになるのかも知れない。

理想と現実のギャップは、かなり大きく、それを埋めるのは、難しいということなのでしょう。