昔から、個人的に、関心を持っていた「広開土王碑(好太王碑)」に書かれた碑文。
果たして、この「碑文」に書かれたことは、事実なのでしょうか。
広開土王碑について。
この広開土王碑は、414年に、高句麗の第19代の王、広開土王の功績を讃えるために、息子である第20代の王、長寿王が、建立したもの。
この石碑があるのは、丸都という場所で、427年に、平壌に遷都をするまで、約400年に渡って、高句麗の王都があった場所。現在中国吉林省通化地区集安郷にあたる。
高さは、6.4メートル。幅は、1.4メートルと、巨大なもので、四つの面に、約1800の文字が刻まれている。
内容は、大きく、「高句麗の歴史と広開土王の系譜、王家の由来などの神話伝説」「広開土王の生前の功績、領土拡張のための生涯にわたる軍事活動」「広開土王の陵墓の管理」の三つに分けられる。
広開土王碑。
この石碑には、4世紀の末から、5世紀の初めにかけての倭国の動向が書かれています。
果たして、この石碑に書かれていることは、事実なのか。
倭国にかかわる部分を、抜き出してみます。
百済と新羅は、元々、高句麗の臣民で、高句麗の朝貢していた。
しかし、広開土王が即位をする、391年以前、倭国が、海を渡って百済を破り、新羅を〇〇して、臣民としてしまった。
広開土王は、平壌に入る。そこに、新羅から使者が来て、「倭国に侵略されたが、広開土王に帰服したい」と伝える。
広開土王は、歩兵、騎兵、5万を率いて、新羅に侵攻し、新羅城を占拠していた倭を追い払う。
高句麗の軍は、任那加羅にも侵攻し、倭の軍を壊滅させる。
404年、倭が、帯方界に侵入。百済の兵たちも、これに協力する。
広開土王は、自ら、軍を率いて、倭を打ち破った。
以上。
さて、この和国の朝鮮半島での動向、そして、高句麗との戦闘は、事実なのか。
そもそも、高句麗と倭国との戦争は、無かったという説もあれば、戦争は、あくまでも、百済が中心で、倭国は、それに、大きく関わっていた訳ではないという説もあるそう。
また、広開土王が亡くなったのが、412年で、石碑が建てられたのが、414年。
そのため、石碑に書かれていることは、現実から、大きく離れたものではないという説もある。
さて、中国では「三国志」の時代の後、「晋」が、国内を統一。
しかし、4世紀の初め、北方の騎馬民族が勢力を増し、中国は、南北に分裂する。
420年、南部では「宋」が成立。
北部では、439年、「五胡十六国」を統一して「北魏」が成立する。
589年、「隋」が、中国を統一するまで、中国では、混乱が続くことになる。
紀元前1世紀頃、現在の中国遼寧省東部の鴨緑江の近くで、高句麗が建国される。
高句麗は、後漢帝国に朝貢していたが、やがて、敵対。
後漢を受け継いだ魏とも敵対しながら、高句麗は、勢力を広げて行く。
313年には、朝鮮半島の楽浪郡を占領し、支配下に置く。
朝鮮半島では、2世紀から3世紀頃に、馬韓五十余国、弁韓十二国、辰韓十二国に分裂。
345年頃、馬韓の伯済国が、百済に発展し、356年には、辰韓の欺廬国が、新羅に発展する。
弁韓の地域では、小国家が集まり加耶諸国となる。
高句麗は、南下を目指し、百済と、激しく、戦っていた。
369年、371年には、高句麗による大規模な侵攻があったようですが、百済は、これを撃退、
しかし、391年、18歳の広開土王が即位をすると、立場は、逆転する。
百済は、高句麗の攻撃に、苦戦。
そして、倭国は、かねてから繋がりのあった百済に味方をするため、朝鮮半島に、軍を派遣した。
369年、百済王の太子が、日本に送った「七支刀」があります。
奈良県天理市の石神神宮に伝わるもの。
七支刀。
これは、百済と倭国の繋がりを示すもの。
広開土王は、西方にあった後燕、西北にあった稗麗(後の契丹)、そして、南方の百済へと、次々と、軍事活動を開始。
さて、高句麗の攻撃に、苦戦を強いられた百済ですが、なぜ、倭国は、百済の支援を決めたのでしょう。
それは、朝鮮半島南部から入ってくる「文化」はもちろん、「鉄」の確保を重要視していたためと思われる。
当時、生活や軍事に重要なものだった「鉄」は、日本では採れなかった。そのため、鉄資源は、全て、朝鮮南部からの輸入に頼っていたそうです。
そのため、高句麗に、その地を支配される訳には行かなかったということ。
そして、「倭の五王」が、登場することになる。
中国の「宋書」に記された「讃」「珍」「済」「興」「武」の五人。
この「倭の五王」は、一体、中国、宋に使者を派遣することで、何を得ようとしたのか。
一つは、「都督諸軍事号」、特に、朝鮮半島南部に対する軍事権。
一つは、「安東将軍」という、宋の東側を安定させる将軍の地位。
一つは、「倭国王」「倭王」として、認められること。
この三つを、宋によって与えられることを望んでいたと考えられる。
これは、当然、高句麗の朝鮮半島での活動を制限しようという意図を持つ。
高句麗は、475年に、百済の都、漢城を落としますが、ここから、なかなか、南下をすることは出来なかったそうです。
これには、やはり、百済を支援する倭国の存在を、警戒していたのではないかという話。
さて、「広開土王碑」に書かれた碑文の内容ですが、個人的には、やはり、倭国の軍と、高句麗の軍との戦闘は、あったのだろうと思っています。
しかし、百済、新羅を、倭国が支配をしていたというのは、あり得ないことかと。
恐らく、倭国は、援軍を、百済、新羅に派遣し、倭国の軍は、先頭に立って、高句麗を戦ったのではないでしょうか。
もしかすると、傭兵のようなものでもあったのかも知れない。
つまり、お金で、人を兵士として売ったという可能性。
もちろん、全ての倭国の軍が、そうだった訳ではないでしょうが。
碑文に、倭国との戦闘が記されたのは、やはり、手強かったからではないでしょうか。
また、高句麗が、朝鮮半島南部に侵攻するのに、異国である倭国の支配から解放するという論理を使ったので、碑文の表現が、あのようになったのかも知れない。
と、思うところです。