昨日の山陽新聞に、何とも、罰当たりな記事がありました。
玉野市と岡山市灘崎にまたがる「常山」の山頂にある「常山城」に、地元の人が、慰霊のために建てた「女軍の墓」と呼ばれる石塔があります。
ネットから拝借した、この写真が、そうなのですが、この石塔や墓碑、44基が、全て、倒されているのを、2日、地元の人が見つけたということ。
新聞に写真が掲載されていましたが、上の写真の石塔や、墓碑が、全て、外側に向かって、倒されている。
なぜ、このような、酷いことをするのか。
記事によると、昨年の5月にも、同じ、被害があったということ。
このような、罰当たりなことをする人間は、そうそう、居ないと思うので、個人的には、同一犯ではないかと思うところ。
若者による愉快犯かとも思うのですが、本当に、何か、罰が当たるべきですよね。
さて、この「女軍の墓」は、確か、この常山が、観光地として整備をされた大正時代の末期か、昭和の初めに、他の施設などと一緒に、建立されたという話だったと記憶しています。
昔は、登る人も多く、賑やかだったようですが、今では、地元の人以外、登る人も、少ないものと思います。
この「女軍の墓」という名前の由来は、天正3年(1575)、上野隆徳が城主だった時代に、毛利氏の攻撃を受けて、落城した時のこと。
その時に、上野隆徳の正室「鶴姫」が、侍女を引き連れ、毛利方の大将だった乃美宗勝に、一騎打ちを挑んだのですが、「女は相手にしない」と、軍を引いたので、鶴姫たちは、城に戻り、城主、上野隆徳を始め、鶴姫以下、全員、自害をし、城は落城。
この逸話を、元にした、慰霊のための供養塔です。
この「常山城落城」の話は、「備前軍記」などに、記されている。
同じ、軍記物である「備中兵乱記」にも、記されていたような気がしますが、記憶が、定かではない。
しかし、個人的には、江戸時代の「軍記物」に書かれた「合戦」に関する記述は、あまり、信用出来ないものと思っている。
この常山城落城の時の、鶴姫の活躍も、実際に、あったのか、どうか。
以下、「備前軍記」などから、記憶に基づき、記しますので、もしかすると、間違っている部分も、あるかも知れません。
なぜ、この「常山城」が、毛利氏に攻められ、落城することになったのか。
それには、「備中兵乱」と呼ばれる、一連の合戦が、影響をしています。
中国地方で、大内氏、尼子氏を倒し、一躍、大勢力となった毛利氏。
この影響を受け、備中国では、備中松山城を拠点にしていた「三村氏」は、この毛利氏を手を結び、備中国で、勢力を広げます。
三村氏は、備前国にも、手を伸ばそうとする訳ですが、備前国児島の常山城を拠点にしていた「上野氏」は、この三村氏と手を結ぶことになります。
上野隆徳は、三村元親の妹、鶴姫を、正室に、迎えることになる。
三村元親の父、三村家親は、美作国で、備前国の宇喜多直家の送った刺客により、殺害されます。
三村元親は、備前国に攻め込み、宇喜多直家に決戦を挑みますが、敗北。これを「明禅寺の戦い」と言います。
この頃、宇喜多直家は、毛利氏とは敵対をしていたのですが、一転、毛利氏と、宇喜多直家は、和睦。
これに、驚いたのが、三村元親です。
宿敵、宇喜多直家と手を結ぶ訳にはいかな三村元親は、中国地方に手を伸ばし始めていた織田信長と、手を結び、毛利氏と決裂。
三村元親謀反を知った毛利氏は、備中国に、攻撃を開始します。
これが「備中兵乱」です。
三村元親は、備中松山城を、毛利氏によって落とされ、三村氏は、滅亡。
そして、この「備中兵乱」の、最後の戦いの舞台となったのが、三村元親の妹、鶴姫の嫁ぎ先だった上野隆徳の居城、常山城です。
ここから、個人的な考察も含めて。
常山城に籠城することになった上野隆徳は、四国の細川氏に、援軍を頼みます。
しかし、その援軍は、来なかった。
備前国児島が、室町時代、四国の細川家の支配下にあったのは、事実。
しかし、この時代、すでに、阿波国、讃岐国は、細川家の家臣だった「三好氏」が支配下に置いていたはずで、もし、援軍を頼むとすれば、細川氏ではなく、三好氏ではなかったですかね。
そして、毛利軍は、小早川隆景が、由加山に陣を置き、三村一族の中で、毛利氏に下った三村親成が、彦崎に。
そして、常山城のある常山の麓には、乃美宗勝が、陣を敷く。
この布陣には、どうも、個人的に、疑問があります。
この時、常山城に立てこもったのは、約百人と言われているようです。
そして、常山城は、それほど、大きな城ではない。
どこかの大軍が、城の後詰めに来る訳でもない。
このような、小勢力の籠る、小さな城を攻撃するために、毛利氏の重鎮である小早川隆景自身が、指揮を取るために出て来るものでしょうかね。
もちろん、三村元親の妹が居るということではありますが、それほど、毛利氏が、力を入れて、奪い取らなければならない城とも思えない。
個人的には、乃美宗勝が、千人程度の軍勢を率いて、攻めれば、十分ではないかという印象。
ちなみに、「備前軍記」には、落城後、常山城は、宇喜多直家に渡されたと書かれていたように記憶していますが、実際は、毛利氏から、城番が派遣され、毛利氏の支配下となった。
羽柴秀吉が、備中高松城を攻める少し前に、この常山城を攻撃するための「軍役」を、諸将に課した書状が、最近、発見されて、記事になっていましたね。
それにしても、この罰当たり、逮捕されるのでしょうかね。
天罰が下ることになると良いのですが。