杉田玄白「蘭学事始」から。
腑分けの見学で、「ターヘル・アナトミア」の解剖図の正確さに驚嘆した杉田玄白は、前野良沢、中川淳庵と、帰り道で、三人で話し合い、この「ターヘル・アナトミア」を、日本語に翻訳することを決意。さっそく、翌日から、始めることにする。
次の日、前野良沢の家に、杉田玄白、中川淳庵が集まり、前野良沢を盟主として、翻訳作業を開始。
が、全く、何も、分からない。
杉田玄白は、アルファベットも知らなかったので、一から、前野良沢に教えて貰う。
さて、どこから、手をつけるか。
最初は、理解のしやすい、人体の表面の図から、見当を付けることにするが、それでも、なかなか、先に進まない。
長い春の日、日が暮れるまで考えても、一行も、理解することが出来ない。
推理をしながら、少しずつ、訳語を決定して行く。
その数も、次第に増えて行った。
どうしても分からない語には、〇の中に十を書く「轡十字」の記しを付け、先に進む。
会合は、一ヶ月に、六、七回。
一年も経つと、訳語も、次第に増え、オランダの事情も、理解出来るようになり、一日に十行くらいは、理解出来るようになる。
また、毎年、春に江戸に来る通詞たちにも、話を聞く。
杉田玄白は、一日、会合をして、理解をしたところは、その夜のうちに翻訳をして、草稿を作成。
四年の間に、11回も、草稿を書き直し、ようやく「解体新書」が、完成する。
この会合の中で、「腑分け」という言葉を「解体」とすることに決める。
また、この会合の中で、誰が言うともなく「蘭学」という言葉が生まれ、使われるようになった。
さて、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵が始めた「ターヘル・アナトミア」の翻訳のための会合。
この会合は、江戸で評判となり、興味を持った人たちが、この会合に、参加を申し出ることになる。
嶺春泰、鳥山松円などは、とても熱心に参加をしていた。
桂川甫周は、最初の会合から参加をし、優れた才能を発揮し、オランダ語を理解する。
しかし、興味本位で来た者や、仕事が、なかなか進まないので、飽きてしまう者、また、やむを得ない事情などで、途中で去ってしまった者も多かった。
そして、この会合に参加をしていた人たちは、必ずしも、同じ志を持っていたという訳ではなかった。
杉田玄白は、一日も早く、「ターヘル・アナトミア」の日本語版「解体新書」を出版し、日本の医学のために、世の中に、早く、この本を広めたいという思いを持っていた。
前野良沢は、とにかく、オランダ語に精通することで、西洋の事情を知り、西洋の本をたくさん読みたいという考えを持っていた。
中川淳庵は、かねてから、本草学、博物学に関心を持っていたので、オランダ語を学ぶことで、海外の物産のことを研究したいと思っていた。
杉田玄白が、会合の中で、とにかく、翻訳作業を急ぐことに、周囲の仲間たちは、笑っていたという。
それに対して、玄白は「自分は病気がちで、年も取っている。だから、急いでいるのだ。諸君が、事業を完成する頃には、自分は、その成果を、草葉の蔭から見ているだろう」と言ったので、桂川甫周は、玄白に「草場の蔭」というあだ名を付けたということ。
そして、翻訳作業を進める中で、杉田玄白は、西洋で言われている人体内部の構造を理解し、評判を聞いて、訪ねて来る人に、説明をすることが出来るようになった。
そして、「解体新書」は、完成する。
さて、有名なエピソードを、一つ。
それは、「鼻は『フルヘッヘンド』しているものである」という部分の翻訳について。
この「フルヘッヘンド」の翻訳作業については、この「解体新書」に詳しく経緯が書かれていて、恐らく、世間でも、よく知られているエピソードの一つ。
しかし、面白いことに、この「フルヘッヘンド」という単語は、「ターヘル・アナトミア」の中には、登場しないそうです。
では、なぜ、杉田玄白は、この「フルヘッヘンド」についての翻訳作業を、「蘭学事始」の中に書き残したのか。
これは、大きな疑問の一つ。
この「蘭学事始」が書かれたのは、この翻訳作業から約50年も過ぎた、玄白83歳の時のこと。
何かの記憶違いで、他の単語を「フルヘッヘンド」と勘違いをしたのか、それとも、翻訳作業を分かりやすく説明するために、わざわざ、創作物語を書くことにしたのか。
そして、いよいよ、「解体新書」の出版となります。