さて、いよいよ、幕府軍と長州軍の戦いである「四境戦争」が始まる。
この「四境」とは、大島口、芸州口、小倉口、石州口の四つ。
以下、この本から。
禁門の変で、御所に向けて発砲したことにより「朝敵」となった長州藩は、幕府による追討を受けることになる。「第一次長州征伐」です。
この時、長州藩は、幕府に対して、徹底恭順をすることで、戦闘を回避。
討伐は、免れることになります。
しかし、この藩庁の対応に不満を持った高杉晋作が、クーデターを決行。
長州藩は、高杉晋作の意向を受け入れ「武備恭順」が決定します。
更に、長州藩は、四カ国連合艦隊の下関攻撃に完敗した後、今度は、下関で、積極的に、列強を相手にした貿易に乗り出します。
この長州藩の内情に、徹底した長州藩の討伐を求める意見が、幕府内に生まれます。
そして、幕府は、第二次長州征伐に向けて、動き出す。
慶応元年(1865)閏5月22日、将軍、徳川家茂は、上洛、参内し、長州征伐の理由を奏上する。
6月、幕府は、芸州藩を通じて、長州藩の支藩である徳山藩と岩国藩の藩主に、上坂を命じるが、病気を理由に拒否。
8月、同じ、長州藩の支藩、長府藩と清末藩の藩主に、上坂を命じるが、これも拒否。
12月、村田蔵六は、藩の命令で、「大村益次郎」と改名する。ちなみに、9月、桂小五郎は、木戸貫治と改名していた。どちらも、幕府を欺くため。
慶応2年(1866)1月22日、幕府による長州処分案が、勅許される。
長州藩の10万石の減封。藩主、毛利敬親の蟄居。世子、広封の永隠居。
2月7日、老中、小笠原長行が、処分の通告のため、広島に下向。
しかし、長州藩は、その処分を拒否する。
ちなみに、この頃、第二奇兵隊が、藩による処遇への不満から、反乱を起しています。
4月13日、幕府は、紀州藩主、徳川茂承を、征長先鋒総督に任命。
5月9日、小笠原長行は、長州藩の藩主名代として交渉に当たっていた宍戸備後守、小田村素太郎を拘束。
5月21日、幕府は、長州藩が処分を受け入れなければ、6月5日を期限に、攻撃を開始すると通告する。
6月7日、幕府軍の周防大島への攻撃により、戦闘が始まる。
ちなみに、この時、周防大島に上陸したのは、幕府歩兵の二大隊と、松山藩兵。
長州藩では、高杉晋作、山県有朋が守備し、5隻の軍艦を動員した小倉口では、幕府軍に攻勢を取ることが決められ、その他の戦場では、藩境付近を専守防衛し、持久戦をすることが決定されていた。
圧倒的に、数で劣る長州軍は、幕府軍と、正面から当たらず、地域住民を味方につけながら、少ない兵力を散会させ、遊撃戦を持って幕府軍の疲労を待つという戦略を取ることに。
ちなみに、長州藩では、戦闘地域に住む民衆の人心を得るということに、非常に、気を遣っているようです。
まず、土地の民心を得て、長州藩への支持を得なければ、戦闘は有利に進められないという意識が、徹底されていたようです。
さて、周防大島に幕府軍が上陸したことで、長州征伐は始まります。しかし、この周防大島は、大村益次郎の戦略では、「蜂起しても構わない」という考えだったようです。それは、圧倒的に有利な幕府海軍を相手にして大きな被害を出すよりは、周防大島は、蜂起しても、戦力を温存しようというのが、大村益次郎の戦略だった。
しかし、藩庁の木戸貫治、山田宇右衛門らは、周防大島に援軍を派遣し、断固、島を防衛することを決定。
6月12日、出陣命令を受けた第二奇兵隊、洪武隊が、周防大島に向かう。
6月14日、芸州口の戦いで、長州軍が、大勝したとの情報を受け、第二奇兵隊らは、周防大島に入る。
この周防大島での戦闘は、島の住民が、ゲリラ戦を続け、更に、高杉晋作が、幕府海軍に一撃を与え、長州藩の正規軍である第二奇兵隊らが上陸して来たことから、幕府軍は、周防大島からの撤退を決定し、幕府歩兵は、芸州口に移動します。
6月11日、芸州口では、彦根藩、高田藩の藩兵が、幕府軍の先鋒として長州藩の藩境に向かう。
長州軍の指揮を取ったのは、参謀の河瀬安四郎。
6月14日、彦根、高田の藩兵と、待ち受ける長州軍が、戦闘を開始。
高性能のミニエー銃を装備し、散会し、遊撃戦を展開する長州軍は、まるで、戦国時代、そのままの彦根、高田の藩兵を圧倒し、撃破。
大勝した長州軍は、攻勢に出るが、ここで、幕府軍は、周防大島から移動して来た、精鋭の歩兵隊を投入。
6月19日、長州軍と幕府歩兵は、大野で激戦となり、戦闘は、膠着状態となる。
さて、大村益次郎が指揮を取ることになった「石州口」の戦い。
長州軍は、総勢、約1000人。
当初、益次郎は、津和野藩との藩境付近を防衛ラインとし、持久戦を行う戦略だったようです。
しかし、津和野藩では、長州藩と戦闘をすることは望まず、長州藩に藩内の通過を認め、藩兵を城下に集め、戦闘をする意思が無いことを、長州藩に伝達した。
この事態を受けて、大村益次郎は、戦略を転換。
6月15日、長州軍は、津和野藩領を抜け、益田に向けて、進軍を開始する。
6月16日、高津川の手前、横田に到着。益次郎は、横田を拠点に、益田を攻略することにする。
同日、長州軍は、浜田藩の兵士が守備する津和野藩、浜田藩の境界にある関門を、戦闘の末、突破。
浜田藩には、福山藩の藩兵が派遣されていて、翌17日、福山藩兵と、長州軍が激突。
この17日の戦闘では、益次郎は、一部の部隊を、迂回させて、敵陣の背後に回す戦術を取る。
益次郎は、部隊を、三つに分け、一隊を、堀川橋から、医光寺の福山、浜田藩兵に備えさせ、一隊を、西に回し、益田川の大橋から万福寺を目指させ、最後の一隊を、万福寺の対岸に潜ませる。
益田の市街地を見下ろす、七尾山の上からの合図で、長州軍は、攻撃を開始。
ここでも、旧態依然とした浜田、福山の藩兵を、ミニエー銃を装備した長州軍が、圧倒。
銃撃戦での不利を悟った浜田、福山の藩兵は、市街地に放火をして撤退。
浜田藩兵は、万福寺と勝達寺の間の椎山から、大砲による砲撃を開始。
長州軍にも、被害が出る。
この頃、益次郎が、敵の背後に迂回させた一隊が、密かに、秋葉山、椎山の裏口に近づき、攻撃を開始する。
福山、浜田の藩兵は、この長州軍の別働隊の攻撃を支えきれず、山上から撤退する。
別働隊が、秋葉山、椎山を占拠したのを見た、大村益次郎は、焼き落とされていた堀川橋を強行渡河することを長州軍に命じる。
医光寺の福山藩兵は、背後の秋葉山、椎山、そして、正面の川を渡河した長州軍の猛攻を受けて、敗走。更に、勝達寺の福山藩兵も敗走する。
万福寺の浜田藩兵は、長州軍の猛攻に、頑強に抵抗する。
益次郎は、一旦、敵の正面の長州軍を撤退させ、浜田藩兵をおびき出し、事前に配置してあった伏兵によって、浜田藩兵を撃退。
福山、浜田藩兵を撤退させた長州軍は、一度、横田、高津に帰陣。
翌18日、再び、益田に入り、益田を占領する。
浜田藩は、幕府に援軍を要請し、更に、長州軍と戦う意図でしたが、この頃、広島では、征長先鋒副総督の本庄宗秀が、宍戸備後守と小田村素太郎を独断で解放するという事件が起こる。
これは、長州藩と講和交渉を始めようという意図でしたが、長州藩は、それを拒否。失敗に終わる。
7月、幕府軍は、浜田城の南西にある大麻山の手前の周布村聖徳寺に本陣を置く。
7月3日、益次郎は、幕府による宍戸、小田村の解放を受け、藩庁に作戦についての問い合わせをしている。
なぜなら、長州軍の戦闘の大義名分の一つが、この「宍戸備後守、小田村素太郎を取り戻す」というものだったため。
長州軍の行動は、藩庁が管理下に置いていたことが、分かる。
益次郎は、周布川の手前から攻撃を仕掛けて、敵を牽制し、浜田城と大麻山との連絡を断ち、本隊が、孤立をした大麻山に攻撃をかける作戦を取る。
7月13日、長州軍は、周布川の上流、内村に入り、対岸に陣取る雲州藩、福山藩の藩兵と砲撃戦。一度、撤退すると、内村、宮尾山で、更に、交戦。
7月15日、大麻山の攻防戦が、始まる。
大麻山の中腹、尊勝寺に陣を置く浜田藩兵に、長州軍が奇襲をかけ、撤退させる。
7月16日、長州軍は、周布川の河口に位置する、周布村に集結。対岸に陣を置く、石州口総督、安藤直裕の紀州藩兵と交戦。
長州軍は、紀州藩兵の砲撃をかいくぐり、周布川を渡河。紀州藩兵を破り、撤退させる。
幕府軍の相次ぐ敗戦で、浜田藩は、長州軍に降伏を申し出る。
浜田藩内は、交戦派、恭順派と二つに分裂し、激しく、対立しますが、最終的に、18日、城に火を放って、浜田藩兵は、逃亡する。石見銀山でも、代官が逃亡。
周辺値域は、一時、無政府状態となり、混乱に陥る。
民衆が、一揆として蜂起。
浜田城下に入った長州軍は、治安の回復に努める。
7月25日、長州軍の一隊が、大森に入る。
7月26日、益次郎も、大森に入る。
7月28日、大森に本陣を置いた益次郎は、民衆の一揆に理解を示しつつも、今後は、一揆は許さないと通達を出す。
8月11日、長浜、周布村で、大規模な一揆が起き、長州軍が鎮圧。
大村益次郎の活躍で、長州軍は、石見国を占領、支配下に置くことに成功。
7月20日、大坂城で、将軍、徳川家茂が死去。
7月29日、天皇の勅許により、一橋慶喜の徳川宗家の相続が決まる。
7月30日、小倉口では、幕府軍に参加をしていた肥後藩兵が、突如、撤退する。
これに驚いた小倉口の諸藩の兵が、勝手に、次々と撤退を始め、幕府軍は崩壊する。
一橋慶喜は、長州に出陣をするつもりでしたが、8月11日、小倉口での幕府軍の崩壊を知り、停戦の勅許を得る。
8月16日、一橋慶喜は、勝海舟を、停戦交渉のため、長州に派遣。
9月19日、長州征伐の中止が、正式に決定する。
長州藩に敗北をした幕府は、その権威を失墜させることになる。
長州藩と手を結んだ薩摩藩は、これ以降、幕府との対決姿勢を強め、京都で、幕府を追い込むため、政治工作に全力を挙げることに。