豊臣秀吉の行った朝鮮出兵について。
天正20年(1592)4月20日、小西行長が釜山に上陸。
ここから、文禄2年(1593)5月まで続く戦いを「文禄の役」と言います。
慶長2年(1597)、再び、日本軍が、朝鮮半島に侵攻。
ここから、翌年、豊臣秀吉の死まで続く戦いを「慶長の役」と言います。
この朝鮮出兵について、個人的に、昔から疑問に思っていることがあります。
それは、朝鮮水軍が使用したという「亀甲船」は、実在をしたのか。
ネットから拝借した写真。
これが「亀甲船」と呼ばれるもの。
そして、日本の水軍は、この「亀甲船」を使った朝鮮水軍の武将、李舜臣に敗れ、日本からの補給が上手く行かず、撤退に追い込まれたというのが朝鮮出兵の定説ですよね。
果たして、それは、事実なのか。
事実ならば、どのような海戦が行われたのか。
また、織田信長が、第二次木津川合戦で、毛利水軍を破った大型の「鉄船」は、どうなったのか。
周囲に鉄を張り、大砲を積んだ大型船を、織田信長は建造し、この合戦で使用したと言われています。
当然、豊臣秀吉も所有していたはずで、この「鉄船」を持ってすれば、もし、仮に、亀甲船が存在したとしても、それを打ち破ることは、容易いなことではないのか。
これも、ネットから拝借。
中央の大型船が、織田信長が建造、使用したという安宅船の「鉄船」の想像図です。
今月号の雑誌「JShips」に、興味深い記事がありました。
まずは、豊臣秀吉の「水軍」について。
天正14年(1586)、秀吉は、豊臣の姓を賜り、九州の島津氏を制圧し、西日本を平定します。
天正16年(1588)、刀狩令と同時に「海賊禁止令」が出されます。
この「海賊禁止令」は、全ての海賊行為や、私的な徴税行為を禁止し、海上生活者を、全て、領主に所属するものとして、豊臣政権に誓詞を提出させるというもの。
つまり、これまで、各地の海域で勢力を持っていた「海賊」「水軍」を、全て、豊臣政権の管理下に置こうという政策です。
豊臣秀吉は、この、配下に置いた大規模な、いわば「豊臣水軍」を、何に使ったのか。
それは、「兵站」です。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は、北条氏の征伐を決定。
天下の大軍を、関東に送る訳ですが、その兵站を、水軍が担うことになります。
実は、豊臣秀吉の登場以前、合戦に向かう兵士たちの兵糧を、どうしていたのかと言えば、基本的には「手弁当」でした。つまり、自分の食べる物は、自分で用意をするのが基本。(それは、現地調達も含みます)
しかし、豊臣秀吉は、大規模な軍事動員を行う代わりに、「兵站」を整備し、兵糧を、豊臣政権が準備し、それを、前線に送るというシステムを、初めて、整えました。
それが、最初に、実行に移されたのが、九州、島津氏の征伐です。
そして、それは、関東の北条氏の征伐でも、実行されることになる。
島津氏の征伐では、30万人の兵士の兵糧と、2万頭の馬の飼料の1年分を豊臣政権が用意し、諸大名に給付したそうです。
北条氏の征伐では、長束正家を兵糧奉行とし、その下に17名の小奉行を置き、20万石の米を駿河国清水に集め、諸大名に配ったそう。米の買い集め、輸送には、水軍の船が使用されました。
さて、朝鮮出兵の兵站について。
豊臣秀吉は、朝鮮半島の釜山に、必要な兵糧と飼料を集めることを計画していたそうです。
そして、戦争が始まると、現地での略奪や、現地の農民から兵糧を徴収するという計画は、日本での合戦の様相と同じで、つまり、豊臣政権が兵站で送るもの、そして、現地で徴収されたもので、兵士たちの食糧をまかなうことになります。
ここに、豊臣秀吉の、大きな誤算がありました。
まずは、現地での兵糧の徴収について。
どうも、秀吉は、朝鮮半島の人たちも、日本の九州などと同じで、その土地を征服すれば、民衆は、自然に、自分に従うものという考えがあったようですね。
だから、兵糧の現地徴収も、日本の地方と同じで、可能だと考えていたよう。
もっとも、そのような考えは、朝鮮半島の人たちには、通用しない。
また、朝鮮半島での兵糧の輸送について。
豊臣秀吉は、大軍を派遣するための「兵站」を整えた訳ですが、実は、それは、兵糧の集積地まで、と、言うことのようで、その集積地からは、各大名が、自分で輸送をしていたそうです。
その集積地では、朝鮮戦争では、釜山ということになる。
そのため、釜山には、大量の兵糧が蓄えられていたものの、それを、前線に運ぶのに、大きな問題があったそう。
釜山から、漢城までを例とすると、当時の記録から、日本軍は、13泊14日の行程が、移動に必要だったそう。その間、人、そして、馬で、兵糧を運ぶことになる。しかし、その兵糧を運ぶ人、馬もまた、食糧を必要とする訳で、釜山で持てるだけ、食糧を積んだとしても、漢城に到着する頃には、全て、食べ尽くし、食糧が漢城に届かない計算になるそうです。
つまり、豊臣秀吉の兵站構想は、最初から、破綻をしていて、日本軍は、朝鮮半島で戦闘を続けられる状態ではなかったということになる。
さて、日本の豊臣水軍と、朝鮮水軍の戦いについて。
当時、朝鮮水軍は、4カ所に本営を置き、それぞれを水軍節度使が指揮をしていたそうですが、文禄の役で、日本軍の侵攻に直面した慶尚道の水軍は、戦わずして船100余艘を焼いて、指揮官は逃走。結果、全羅左道の水軍節度使だった李舜臣が、指揮を取ることになる。
李舜臣の率いる水軍は、日本の水軍を相手に善戦したそうですが、釜山の周辺に築かれた倭城を落とすまでの力は無かったそう。
文禄元年(1592)8月の釜山浦海戦では、一時、李舜臣は、善戦したものの、最終的には、倭城、そして、日本軍の大型船からの大砲による攻撃を受けて、大敗。以後、攻撃に出ることが出来なくなってしまったそう。
つまり、日本軍は、制海権を握り続け、補給には、全く、支障は無かったということになる。
慶長の役では、日本軍は、鉄板を張った大型の安宅船の数を増やし、大砲によって、朝鮮水軍を圧倒。朝鮮水軍の拠点を、次々と奪って行くことになる。
日本軍が、制海権を握り続けていたことは、豊臣秀吉の死によって、朝鮮半島から撤退する日本軍が、朝鮮水軍から、何の妨害を受けることもなかったことで、よく分かります。
つまり、「朝鮮水軍、李舜臣の活躍で、日本軍が追い込まれた」というのは、誤り、と、言うことになります。
ちなみに、「亀甲船」については、当時の史料には、全く、登場しないようです。
つまり、後世の創作によるものという可能性が高い。
そして、やはり、大型の安宅船による「鉄船」は、この朝鮮出兵でも、大活躍をしていたということのようです。