今日は、倉敷市粒江小学校の近くを散策。
色々と、興味深いものが。
こちら、吉岡川。
カモたちが、水面に集まっていました。
他にも、カワウと思われる鳥が二羽。
サギと思われる鳥の集団もいました。
河川敷から、南の山を見る。
昔は、あの山の際まで、海だった。
河川敷を降り、山に向かって歩くと、横断歩道を渡ったところに、児島八十八カ所の遍路石がありました。
少し歩くと、このようなものが。
石灯籠に、石碑が、二つ。
石灯籠に掘られた、この「金」の文字は、何を意味しているのでしょう。
真ん中の石碑には「粒江貝塚」と書かれています。
今日は、この場所を見るのが目的。
この「粒江貝塚」とは「船元貝塚」のことで、この近くにあります。
この「粒江貝塚」の石碑の隣は、「地神」で、その隣に、小さな石柱が。
この石柱には「右・種松山金毘羅道」と書かれています。
種松山を通る金毘羅へ向かう街道も、あったのですかね。
そして、傍らに、このようなお堂が。
中を覗いてみると、大師堂のようで、綺麗で、小さな弘法大師像が見えました。
更に、少し歩き、坂道を登ると、粒江幼稚園がありますが、そこに「粒江小学校創立の地」と書かれた石柱が。
坂の上から、今の粒江小学校の方を見る。
細い坂道を降りて行くと、途中に、石灯籠と地神がありました。
恐らく、この細い道が、古くからの道なのでしょう。
さて、今日の目的地である「船元貝塚」は、先の石碑のある場所から、少し、脇道の坂を登ったところにあります。
こちらが、その「船元貝塚」があった場所のようです。
今では、もう、完全に住宅地ですね。
説明版を拡大。
ネットで、少し、この「船元貝塚」について、調べてみる。
この「船元貝塚」は、種松山から北へ低く延びた丘陵の先端に位置する縄文中期(約5千年前)の貝塚。
ここから出土した土器は「船元式」と呼ばれ、近畿地方から北九州にわたる広い範囲で見つかっていて、瀬戸内地域における縄文中期の典型的な土器形式だそう。
1920年(大正9)5月、京都大学の清野謙次によって発掘調査が行われ、この時、14体の人骨が、発見されているそうです。
更に、同年、10月の発掘調査では、3体の人骨が発見されているそう。
この頃、すでに、貝塚は住宅地となっていて、発掘調査は、人家の庭先で行われたようです。
清野氏の本によれば、当時、すでに貝塚の中央部は地ならしで失われていて、最下部が残っていただけということ。
倉敷考古館のホームページに、面白いことが書かれていました。
この、清野氏が発掘をした人骨、14体。
調査の結果、男性が2体、女性が10体、性別不明が2体という記録が残っているそう。
この、男女の数の比は、近隣にある貝塚で発掘をされた人骨に比べると、とても、女性が多いということのよう。
例えば、彦崎貝塚では、判明したものでは、男性が6体、女性が3体。
涼松貝塚では、男性12体、女性4体。
どちらも、男性の方が、女性よりも、かなり、数が多い。
これには、何か、理由があるのか。
例えば、何らかの理由で、船元貝塚の近くに住む縄文人には、女性が多かったとか・
または、単なる、偶然で、女性の人骨が、たまたま、多く、発掘されたということなのか。
もう一つ、この発掘をされた人骨の中に、「石鏃」が刺さったものがあったという記録があるそうです。
そして、その人骨は、女性で、貝輪を、右腕にはめていたということ。
しかし、別の記録では、石鏃の刺さった人骨は、老年の男性だとも書かれていて、どちらが、真実なのか。
そして、縄文時代は、基本的に、争いの無い、平和な時代。
そのような時代に、なぜ、石鏃が、身体に刺さるような出来事が起こったのか。
謎は、深まります。