先の戦争で、玉野市は、空襲被害を受けなかったのか。
ネットで調べて見ると、総務省のホームページに、全国の空襲被害について書かれたものがあり、その中に、玉野市での被害状況もありました。
玉野市には、三井造船、日比精錬所、海軍の火薬を作っていた由良染料などがあった。
また、玉野市築港から渋川にかけての小山の数カ所には、高射砲の陣地が作られ、敵の上陸しそうな海岸には、「たこつぼ」と呼ばれる壕が掘られ、演習が行われていた。
昭和20年4月頃から、度々、アメリカ軍戦闘機による機銃掃射が行われる。
これは、造船所の沖合に居る海防艦、船舶が攻撃目標だったと思われ、時には、市街地、そして、八浜の辺りまで、飛んでくることがあったそう。
しかし、なぜか、玉野市の造船所、日比精錬所、由良染料などは、アメリカ軍の空襲の対象にはならなかった。その理由は、不明だということ。
渋川には、浦田海兵院というものがあり、その施設が、海洋道場として青少年の海洋訓練に使用されていたということ。
昭和19年1月には、未婚の女性による「女子勤労挺身隊」が組織され、三井造船、三井金属、由良染料、帝国興業などで、働くようになる。
また、4月には、各中学生や六高生も、勤労学徒として徴集され、六高生は、主に、三井造船と水島の三菱重工に派遣されたということ。
12月には、国民学校高等科の生徒も徴集され、12歳以上の働ける者は、根こそぎ、徴集され、三井造船や日比精錬所で働かされたそうです。
さて、昭和20年4月8日、玉野市和田の丸山という小さな丘の下にある和田社宅第五町内(戸数約40戸)に8発の爆弾が投下されます。
午後11時55分。この時は、空襲警報が出されていて、どの家も、灯火管制をしていたということ。ラジオでは「敵機は、備前地区を旋回中」その後「播磨方面を旋回中」と報じていたそうです。
投下された8発のうち、3発は不発弾でしたが、死傷者が20数名、出たそうです。
爆弾が落下したのは、山だったそうで、被害は、爆発をした爆弾の破片によるもの。
6人が、即死。1人は、病院に運ばれる途中で亡くなり、1人が、病院で亡くなります。
しかし、この空襲は、憲兵隊の指示によって隠蔽され、市内の人でも、知らない者が多かったそうです。
さて、問題は、この玉野市和田への小規模な空襲は、なぜ、行われたのか。
あるホームページによると、昭和20年3月から4月にかけて、岡山県内では、B29単機による小規模な空襲が9件、あったそうです。
これは、レーダースコープ撮影任務と気象観測攻撃任務のという2種類の任務に伴うもので、航行と投弾訓練を兼ねたものだったそうです。
玉野市和田への空襲は、その中の一つ。
正面に、小高い丘の上に家があるのが見えますかね。
その家がある丘が「丸山」です。
やや、方向を変えて。
右に、丘の上に家々が建ち並んでいるのが分かります。
その丘が「丸山」です。
ここに爆弾が落下したということになる。
この辺りは、丸山の北側。和田5丁目になります。
今は、駐車場になっていますが、僕が子供の頃、中学生の頃までは、三井造船の社宅が、建ち並んでいた。
ここは、旧日比中学校前から撮影。
ここは、丸山の、すぐ、北側になり、ここにも、三井造船の社宅が、建ち並んでいた。
ここで、空襲があったんですよね。
小規模な空襲とは言え、8人の死者と、20人を超える負傷者が出ている。
負傷者の中には、足を失った者、指を失った者も居るそうです。
しかし、こういった空襲被害を受けた人たちは、全国的に、何の補償もなく、戦後、苦しい生活を続けていたようですね。
ネットの情報が正しいとすれば、アメリカ軍によるこの空襲は、単なる、訓練の一環だったということのよう。
それで、8人の人の命が、何の意味もなく、奪われてしまった。
戦争とは、そういうものです。
ちなみに、6月22日、水島で、三菱重工の航空機の工場が空襲を受ける。
6月29日、岡山市街地が空襲を受ける。
7月24日、艦載機による岡山空襲。
また、終戦間際には、倉敷への空襲も計画されていた。
多くの民間人が、殺害をされることになる。