まずは、足利義兼の活躍。
養和元年(1181)11月、源義経らと友に、遠江国への出陣を命じられる。
元歴元年(1184)5月、源義仲の子、義高の残党が甲斐国、信濃国で蜂起。小笠原長清らと共に、甲斐国に出陣。鎮圧に当たる。
源範頼に属して、平家追討のため、西国に出陣。
翌年8月、平家追討の軍功により、上総国の国司(上総介)に任命される。
文治5年(1189)7月、奥州藤原氏の追討のため、源頼朝に従い、陸奥国に出陣。
翌年1月、奥州藤原氏の遺臣が、出羽国で蜂起。義兼は、追討使に任命され、これを鎮圧。
軍功による国司への任命は、源氏一門の6名のみに認められたもの。
足利義兼は、源頼朝を支える源氏一門の一人と認められ、その中心に居たものと考えられる。
一方、新田義重。
養和2年(1182)4月、江ノ島に勧請した弁財天の供養法に隣席した源頼朝に供奉する。
これが、新田義重の御家人として活動を示す唯一のもの。
また、かつて、源頼朝の異母兄、義平に嫁いでいた新田義重の娘は、義平の死後、後室となっていたのだが、頼朝は、その娘に好意を持ち、娘を側室に差し出すよう、義重に働きかけたものの、義重は、それを拒否して、娘を、別の男に嫁がせる。
この出来事以降、新田義重の活動は途絶え、鎌倉を去り、上野国新田荘に隠退したと思われる。
建久4年(1193)4月、下野、上野、信濃の国境に広がる三原野で、巻き狩りを行った源頼朝は、その帰路、新田義重の館を訪れ、歓待を受ける。
建仁2年(1202)1月、新田義重、死去。88歳。
新田義重は、源頼朝への安易な服従を、受け入れようとしなかったようですが、新田氏全体が、頼朝から冷遇された訳ではありません。
新田義重の孫、里見義成は、源頼朝の寵臣として活躍。
新田義重の次男、山名義範は、足利義兼と同じ源氏一門の6名の中の一人となり、伊豆国の国司(伊豆守)に任命される。山名義範は、足利義兼と肩を並べていたと言える。
新田義重の後を継いだのは、嫡男、新田義兼。
足利義兼、里見義成、山名義範に、大きく遅れを取った新田本宗家の当主、新田義兼は、幕府の行事に積極的に参加をし、更に、従兄弟に当たる足利義兼との結びつきを強めます。
新田義兼は、娘を、足利義兼の子、義純に嫁がせます。
建久6年(1195)3月、源頼朝は東大寺の供養会に隣席するために上洛。足利義兼は、これに供奉します。
5月、源頼朝は、四天王寺に参詣し、その後、足利義兼の活動が無くなるので、この頃、足利義兼は、出家、隠退したものと思われる。
それから四年後の3月、足利義兼、死去。46歳。
嫡男の足利義氏が、足利家の当主となりますが、わずか7歳。
足利家は、幼い当主の外戚である北条氏を頼ったと考えられる。
このように、新田義重、足利義兼の鎌倉幕府御家人としての政治的立場や社会的地位は、大きな格差が生まれてしまいました。
そして、それは、その後の子孫たちに、影響を与えることになる。