今日も、暇つぶしに、早島へ。

「弁財天港跡」の周辺を歩いてみました。

 

まず、見つけたのは「二間川」と書かれた標柱と、説明版。

後ろの用水路が「二間川」で、農業用水や、水運に使われた川だそうです。

 

この「二間側」を、西へ歩きます。

 

金毘羅街道の道しるべがありました。

「左、金毘羅」「右、(不明)、おかやま、にわせ」と書かれていたようです。

ここもまた、かつては、金毘羅街道だったのでしょう。

 

更に、歩くと、まだ、真新しい石灯籠を発見。

 

対岸にも、もう一つ、石灯籠が見えます。

 

その近くの橋のあるところに、「弁財天港跡」と、その説明版がありました。

 

この「弁財天」は「船本」と並んで、早島の河川交通の拠点だったそうです。

車が発達をする以前、多くの荷物を運ぶ物流の中心は、船だった。

以前、紹介した、彦崎港や、庭瀬港もまた、水運で賑わった場所。

 

やや、遠景。

 

更に、やや、遠景。

かつては、この川を、多くの船が、行き来をしていたのでしょう。

 

ちなみに、江戸時代の金毘羅街道は、宇喜多堤から、この弁財天を起点に、南下をし、茶屋町、藤戸に続いたそうです。

上の道しるべの石柱は、その起点でしょう。

 

ちなみに、この「弁財天」という地名は、この近くに「厳島神社」があり、そこに祭られているのが「弁財天」であったことから名付けられたものです。

この「弁財天港跡」から、少し、東に、「厳島神社」は、あります。

 

こちら、二間川にかかる石橋を渡り、住宅に挟まれた道の先に「厳島神社」は、あります。

 

こちら、正面の鳥居です。「厳島神社」と書かれた石柱がありますね。

 

意外に、小さいですね。

ここにも「弁財天港跡」の説明版がありました。

境内には「灰船中」寄進の灯籠の竿があるとネットの説明にありましたが、説明板の横にあるのが、そうだったのでしょうか。

また、境内には、かつて海だった時の波に削られたと思われる巨石郡があると言うことで、それを見ようと思って行ったのですが、確認できませんでした。

 

 

鳥居を入って、右手にある、この場所のことなのでしょうかね。

でも、どうも、それらしくないので、違うのかも。

ちなみに、右の立石には「三百年塚」と書かれていて、左の立石は「地神」でした。

 

ネットで改めて探すと、大きな岩が、いくつかある場所があるようで、写真もありました。

見逃したので、残念。