今日は、早島の方に出かけて見ました。
目的は、「宇喜多堤」の痕跡と、金比羅街道の常夜灯を確認するため。
この「宇喜多堤」とは、天正17年(1589)、岡山城主だった宇喜多秀家が、家臣の岡豊前守、千原勝利に命じて、児島湾を干拓するために作らせたもの。
これは、児島湾干拓事業の先駆けとなります。
この「宇喜多堤」は、二カ所あり、一つは、今の倉敷市酒津から倉敷市浜町(当時は、浜村)までの約2キロ。
もう一つは、今の都窪郡早島町にある塩津から、宮崎を通り、向山山麓にある岩崎にかけて築かれたもの。
この地図を見れば、分かりやすいと思います。
左手にある赤線が、酒津から浜村までの宇喜多堤。
右手にある赤線が、塩津から宮崎、向山を繋ぐ宇喜多堤。
当時の海に浮かぶ小山を繋ぎ、その間を埋め立て、干拓をしようという意図が分かります。
まずは、JR早島駅から北東にある「龍神社」に向かいます。
これが、その看板。「不老の道」とは、史跡などを巡る散歩コースのようです。
中に入ると、遊具のある公園があり、「龍神社」は、それに隣接しています。
その「龍神社」には、二つの鳥居、二つの社がありました。
ネットで調べると、「龍神社」は、左側の方で、右側の社は「進雄神社」だそうです。
こちらが、左側の鳥居と社。
こちらは、右側の鳥居と社。
そして、公園の東側に、「宇喜多堤」の起点の地の石碑があります。
こちらが、「宇喜多堤」の起点の地の石碑です。
この丘が、「宇喜多堤」の東端だったということになる。
この「宇喜多堤」は、今の県道152号「岡山妹尾線」と、ほぼ、重なるようですね。
そして、干拓事業が進むと、この「宇喜多堤」は、「金毘羅街道」として使われることになったそう。
この「金毘羅街道」とは、四国讃岐国にある「金毘羅宮」に、お参りをするための人が通る街道です。
岡山藩の中心である岡山城下から向かう街道、そして、庭瀬藩から向かう街道が、この早島で一つになり、茶屋町、藤戸、由加を通り、瀬戸内海を渡って、金比羅宮に向かうことになります。
この「龍神社」「宇喜多堤起点の地」から、西に向かいます。
すると、少し、高い丘の上に「安養院」というお寺があります。
この石段を登ります。
立派な山門に、面白いものがあるのが見えるでしょうか。
大きな草鞋(わらじ)が、飾られています。
この巨大草鞋は、檀家の人たちが製作し、この山門にある阿吽、一対の仁王像に奉納したものだそうです。
古くは、江戸時代に記録が残っているそうですが、その後、途絶えていたものを、1973年に復活させたそう。
健康増進、無病息災の願いが込められているそうです。
全国には、他にもいくつか、例があるそうですね。
境内から。
山門の二階には、鐘がありますね。
境内には、この二つの建物が。
下の方が、本堂でしょうかね。
さて、安養院から、少し、西に歩いたところで、金毘羅街道の常夜灯を発見。
ここが、岡山、庭瀬から来る街道の合流点ということになるのでしょうか。
こちら、道しるべの石柱です。
「右」「ゆがさん」「こんぴら」と書かれていますね。
こちら側には「左」「きひつ」「をかやま」と書かれてます。
この道を、多くの人が、歩いていたんですね。
さて、常夜灯から、少し、西に歩くと、このようなものが。
「清澄家」という明治時代に建てられた洋館だそうです。
この建物が、そう。
県道に戻り、少し歩くと、懐かしい看板がありました。
更に、歩くと、このような場所が、「宇喜多堤市場園」と書かれてますね。
こちら、「宇喜多堤」についての説明版です。
近くには、このような古い建物が。
土壁に、藁葺き屋根の、古い家もありました。
このような家は、維持が大変でしょうね。