貝殻山にある「中央広場」と、それに隣接をしている「小名郷池」に行ってみました。

 

小名郷池についての看板です。

 

看板近くにある休憩所。

この道を挟んだ反対に、中央広場があります。

 

こちらが、中央広場です。

綺麗に整備をされています。

左に見える建物は、トイレです。

 

反対側から、右手がトイレ。

 

このような恐竜の恰好をしたものが、一つ、置かれていました。

「こども広場」という看板が、近くにあります。

子供が、登って、遊べるようです。

 

恐竜のある場所から、広場の方を見る。

 

広場の風景。

 

山際の風景。

 

さて、この中央広場に隣接して、小名郷池があります。

 

こちらが、小名郷池、正式には、旧小名郷池になるようで、小さな池です。

池の上を歩くことが出来るように、歩道が作られています。

 

歩道の上から、水面を見る。

 

 

 

 

 

静かで、落ち着いたところです。

奥まった場所にあるためか、あまり、人が多く来る場所ではないよう。

あまり、水がきれいではないのが、少し、残念なところですかね。

近頃、雨が少ないのも、影響をしているのでしょうかね。

 

旧小名郷池の隣にあるのが、今の小名郷池のようで、こちらは、公園として整備をされている訳ではなく、普通のため池のようです。

 

さて、「貝殻山」という名前は、この山には「貝塚」があり、貝殻が多く見つかったことで名前がつけられたというのは、昔、聞いて、知っていましたが、その「貝塚」が、どこにあるのか。

知らなかったので、ネットで調べてみると、どうも、山頂近くに、その貝塚は、あったようですね。

まさに、この貝殻山には「高地性集落」があり、そこで生活をしていた人たちが、貝塚を作ったということなのでしょう。

歩いて標高289メートルの山頂まで登るには、相当な苦労があったはずですが、それでも、そこに住んでいたということは、そうしなければならない理由があったということ。

今からでは、なかなか、想像が出来ませんね。

 

さて、この「高地性集落」について、ウィキペディアから、簡単に、説明します。

 

弥生時代の中期から後期にかけて、農作物の大量生産に適さないと思われる山地の頂上や、斜面、丘陵に作られている集落で、その目的には、未だ、様々な議論があるということ。

弥生時代の中期には、大阪湾岸と、中部瀬戸内、弥生時代の後期には、近畿と、その周辺部に限定されているそう。

古墳時代の前期になると、西日本の広島や鳥取、北陸の富山、石川、新潟に分布をしているということ。

北部九州には見られないそうです。

 

この「高地性集落」の多くは、平地や海を、広く展望できる場所にあり、「焼け土」を伴うことが多く、「狼煙」として使われたことが考えられるということ。

発掘調査からは、この「高地性集落」は、一時的なものではなく、かなり整備をされた定住型の集落であることが分かっているそう。

 

以上のことから、「高地性集落」は、「山城」のような軍事的性格の強いものと考えるのが主流のようですが、平地の集落と同じような遺物が発見されているので、かなりの期間、住居を構えたものだったことが分かっているそう。

 

その分布の状況から、弥生時代の中期から後期にかけて、北九州から瀬戸内、畿内の間で、軍事的衝突を伴う、政治的紛争が絶えなかったのだろうと推測されているそうですね。

 

この貝殻山の山頂近くに「高地性集落」が作られたのは、貝殻山が、備前国児島の東部の端にあり、瀬戸内の海を監視するには、絶交の場所だったからでしょう。

山頂の展望台に立つと、特に、南から東にかけての海が、よく見えます。