2017年、大河ドラマの主人公になった「井伊直虎」という人物。

実は、女性だったという話で、柴咲コウさんが、主演をしましたよね。

個人的に、徳川家康という人物に、ほぼ、関心がなく、関連本も、ほぼ、読んだこともないので、その重臣、井伊直政についても、詳しいことは知らず、その養母が「井伊直虎」だったということも知らなかった。

そして、この「井伊直虎」に興味を持ち、当時、いくつか、本を読みました。

 

まず、この井伊直虎の経歴について、ウィキペディアから。

 

遠江国井伊谷で、井伊直盛の娘として誕生。

直盛に、他に子供はおらず、直盛の従弟にあたる井伊直親を、娘と結婚をさせ、家督を相続させるつもりでいたということ。

しかし、井伊直親の父、直満が、今川義元への謀反の疑いで、殺害される。

そのため、直親も井伊谷を脱出、婚約は解消されることになる。

そして、直盛の娘は、龍泰寺で出家、「次郎法師」を名乗ることになる。

その後、直親は、弘治元年(1555)に、井伊谷に帰還。直盛の養子となるが、次郎法師とは別の女性を正室に向えることになる。

 

永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで、井伊直盛が戦死。直親が家督を継ぐことになりますが、家臣の小野道好の讒言によって、今川氏真によって殺害される。

永禄6年(1563)、曾祖父の井伊直平が急死。

井伊家を継ぐべき男子が、次々と亡くなってしまったことで、永禄8年(1565)、井伊直盛の未亡人と、南泰寺の南渓和尚が相談の結果、次郎法師を井伊家の家督に就けることになる。

 

この永禄8年には、「次郎法師」が領主として龍泰寺に印判状を出していることが確認されている。

翌年には、「次郎法師」が、祖父、直平の菩提をとむらうために、福満寺に鐘を寄進しているということ。

 

永禄9年(1566)、今川氏真が、井伊谷に徳政令を出しているのですが、これは、井伊氏の抵抗で、二年間、実行されなかった。

永禄11年(1568)、今川家の重臣、関口氏経と「井伊次郎直虎」の連盟で、徳政令の実施を伝える書状が出される。

この書状が、「井伊直虎」の名前が確認できる、唯一のものだということ。

 

同年、井伊直虎は、井伊谷城を、重臣の小野道好によって奪われることになる。

その後、今川家、徳川家、武田家の遠江国での攻防の狭間で、直虎は、直親と正室の子、直政を徳川家康に出仕させ、井伊家の勢力回復を図る。

 

そして、天正10年(1582)に、亡くなったということ。

 

 

この本は、大河ドラマのガイド本ということですが、井伊直虎について、分かりやすく書かれています。

また、当時、女性が、どういう生活をし、どういう立場にあったのかということも紹介されていて、面白かったです。

 

 

この本は、副題に「山の民、悪党」とあるように、内容は、かなり独特で、井伊直虎について知りたい人には、あまり、おすすめというものではない。

 

さて、そもそも、この「井伊直虎」という一地方に存在をしただけのマイナーな小領主が、なぜ、大河ドラマの主人公に選ばれたのか。

それは、恐らく、「おんな城主」ということが、興味を引いたからでしょう。

 

しかし、この「井伊直虎」については、未だに、分からないことが、非常に多い。

何しろ、「井伊直虎」についての確実な史料は、名前の記された書状が、一枚しか残っていない。

 

上に書いた「井伊直虎」の生涯については、「井伊家伝記」を元にしているそう。

しかし、この「井伊家伝記」は、江戸時代に書かれたもので、史実ではい、明らかな誤りも多い本だということ。

しかも、この「井伊家伝記」には、「次郎法師」が、井伊家の当主を務め「女地頭」と呼ばれたという記述は、あるものの、この「次郎法師」が「井伊直虎」であるとは記されていないそう。

 

では、なぜ、「次郎法師」=「井伊直虎」ということが考えられているのか。

 

それは、一次史料である書状から、「次郎法師」と「井伊次郎直虎」が、ほぼ、同じ時期に、井伊谷で、領主を務めていたということが確認をすることが出来るから。

二人に共通する「次郎」という名前は、井伊家の当主となる人物が、代々、名乗ったものだそう。

そのため、同時期に「次郎」を名乗る人物が、井伊谷に二人いたとは考えにくいので、「次郎法師」と「井伊次郎直虎」は、同一人物なのではないかと考えられているそうです。

 

もっとも、この説には、異論を唱える研究者も多いということ。

つまり、「次郎法師」=「井伊直虎」=「女性」ということは、未だ、定説ではないという話になるようです。

 

さて、ここからは、個人的な推測です。

 

個人的には、「井伊直虎」は、女性ではなかった思っています。

その理由は、女性が、「直虎」という男性名を名乗らなければならない必然性が、全く、無いから。

なぜ、女性が「直虎」という男性の名前を名乗ったのかということについては、周辺の国衆などから、女性だと舐められる、馬鹿にされるからという意見もあるようですが、これは、完全な、誤りです。

江戸時代に儒教道徳の広まりにより、武家の女性の地位が、著しく、低くなる以前、女性もまた、男性当主に代わって「家」の実権を握る場合があり、それは、周知の事実だった。

実力社会と言われる戦国時代でも、それは、例外ではありません。

 

例えば、今川氏親の妻、寿桂尼のケースが、そうです。

彼女は、夫の今川氏親の死後、息子の今川氏輝が成長するまで今川家の実質的な当主でした。

また、女性も、家督相続をし「地頭」として領主になることも可能で、実際に、そういうケースも、いくつもありました。

例えば、大友家の重臣、立花道雪の娘が、そう。

立花道雪の死後、娘が、その領地を受け継ぎ、当主となります。

ちなみに、その後、この娘の夫となるのが、名将、立花宗茂です。

つまり、女性が、「井伊直虎」という男性の名前を名乗る必要は、全く、無いということ。

 

 

そして、この本には、個人的に、大きく同意できることが書かれていました。

それは、女性が「花押」を使うというケースは、全く、存在をしないということ。

 

この「花押」というのは、その人、個人が書いたということを証明するためのサインのようなもの。

この「花押」を、女性が使ったという例は、無いということ。

しかし、唯一、現存をする「井伊次郎直虎」の名前がある書状には「花押」が書かれている。

そのため、「井伊直虎」は、女性ではないのだろうと、著者は、推測をしていました。

 

ならば、「井伊直虎」とは、誰なのか。

これには、確かな史料が、書状、一枚しか残っていない以上、推測をするしかない。

著者は、井伊直政につながる井伊家とは、別の系統の人物なのではないかと推測をしていましたが、僕も、そうではないかと思うところ。

 

今でも、「井伊直虎」に関する研究は、進められているのでしょうかね。

しかし、基本的には、一地方の、マイナーな人物で、関連書籍が出版をされるということは、今後、なかなか、期待は出来ないでしょうね。