大鳥圭介という人物を、御存じでしょうかね。
幕末の歴史や、新選組に興味がある人なら、名前くらいは、知っているのだろうと思います。
それは、戊辰戦争で、幕府脱走兵を率いて戦い、榎本武揚総裁の元、設立された箱館政府で、陸軍奉行を務めたこと。土方歳三の直属の上司だったことで、ある程度の知名度は、あるものと思います。
しかし、この大鳥圭介が、どのような人物で、どのような人生を送った人なのか。
恐らく、大鳥圭介本人に関心がある人でないと、それを知る人は居ないのではないでしょうかね。
大鳥圭介について知るには、取りあえず、この本でしょうか。
ちなみに、副題の「連戦連敗の勝者」というタイトルには、個人的に、違和感のあるところですが、取りあえず、これに関しては、またの機会に。
そして、大鳥圭介について、もっと、よく知りたいという人には、この本が良いと思います。
しかし、この本の構成、と言うか、書き方が、少し、独特なので、大鳥圭介について、あまり知らないという人が読むと、少し、混乱をすることになるかも。
大鳥圭介という人物の略歴を、以下に、記します。
関心のある人は、読んでみてください。
さて、この大鳥圭介は、播磨国赤穂郡細念村、今の兵庫県上郡で、代々、町医者の家系の長男に生まれます。しかし、祖父は、医者であるのと同時に、漢学者としても有名で、圭介は、祖父の影響を受け、将来は、漢学者になりたいと思っていました。
そして、備前国閑谷にある閑谷学校で、漢学の勉強をすることになります。この閑谷学校は、江戸時代初期、岡山藩の藩主、池田光政によって設立された、日本初の、身分を問わず入学を認められた公立の学校です。
圭介は、ここで、五年間、漢学の勉強をし、医者になるために、家に戻ります。そして、修行のために、赤穂の町医者、中島意庵の元に出されますが、圭介は、ここで、蘭学に出会います。西洋の科学技術に魅了された圭介は、蘭学の勉強をしたいと熱望し、当時、日本一の蘭学塾だった大坂の適塾に入門。
この適塾は、緒方洪庵という蘭方医が設立をした塾で、幕末維新に活躍をした多くの人物を輩出。大鳥圭介もまた、その中の一人。
適塾での勉強に励んだ圭介でしたが、国元からは、帰って医者になるように催促が来るようになる。しかし、もっと蘭学を勉強したいと考えた圭介は、江戸に出ることを決意。緒方洪庵の紹介で、江戸の大木塾に入門をすることに。
適塾で学んだ圭介の実力は、江戸でも評価され、入門して間もなく、塾頭となる。当時、優れた蘭学者は、引く手あまたで、洋書の翻訳や、内容の指導の依頼が、様々な場所から舞い込むことに。
圭介は、更に、当時、洋式兵学の総本山だった江川塾に、教授として招かれる。この江川塾で圭介の教えを受けた生徒の中には、後に、政治家や軍人として活躍をすることになる薩摩藩の黒田清隆や、大山巌も居た。
蘭学者、大鳥圭介は、尼崎藩によって士分として召し抱えられます。さらに、徳島藩からも誘われ、尼崎藩との協議の結果、徳島藩にも、召し抱えられることに。
そして、圭介は、徳川幕府の講武所にも出向し、洋式兵学を指導することになります。
この頃、圭介は、金属活字を自作し、活字による本を制作することになる。これは、日本で最初の金属活字による印刷物で、活字は「大鳥活字」と呼ばれますが、活字自体は、現存していないということ。しかし、この「大鳥活字」で印刷をされた本は、残っているそうです。ちなみに、この頃、圭介は、カメラを自作し、撮影に成功をしているそう。自分でカメラを作って、撮影をしたのも、圭介が日本で最初だそうです。
圭介は、江川塾に来た中浜万次郎や、幕府の命令で横浜のヘボンから、英語も学びます。
そして、圭介は、幕臣として登用され、開成所の教授となります。さらに、自ら、歩兵の調練を受けることを申し出て、許可されます。歩兵指図役頭取、歩兵頭、歩兵奉行と、出世をして行き、フランス人士官から直接、訓練を受ける幕府歩兵の精鋭「伝習隊」の設立に関わります。この時、圭介は、江戸で馬丁、火消し、博打ち、ヤクザものなどの荒くれものを集め、自ら、選抜をした。「このような人間を集めて、統制が出来るのか」という反対意見に対して、「歩兵は、このくらいの人間でなければ、役に立たない」と言ったという。
しかし、圭介は、鳥羽伏見の戦いには、江戸に居て不参加。大坂から江戸城に戻って来た徳川慶喜に対して、新政府軍との徹底抗戦を主張しますが、拒否されます。
そして、圭介は、配下の伝習隊と共に、江戸を脱走。大鳥圭介と戊辰戦争については、また、別の機会に。
箱館で降伏をした大鳥圭介ら、箱館政府の幹部たちは、江戸に護送され、投獄されます。二年を超える獄中生活の末に、赦免され、明治新政府に出仕をすることになります。
圭介の最初の仕事は、大蔵省が、外債を募るためにアメリカに派遣をする使節に同行すること。アメリカ、そして、イギリスで、各地を視察して回り、近代工業、科学技術を学びます。この時、「ダム」というものを最初に日本に紹介することになる。また、同時期に海外を回っていた岩倉使節団の中の一人、伊藤博文とは、イギリスで、一時、行動を共にしていたそうです。
帰国をした圭介は、陸軍省に出仕を命じられることになりますが「自分は、敗軍の将なので、口を出すことは出来ない」と、辞退を申し出、工部省に移動。
明治時代初期、日本は、農業国だった訳ですが、これを近代工業国にしようと活動をしたのが、伊藤博文と山尾庸三です。大鳥圭介は、この二人の元で、日本の工業化の推進に関わることになります。
そして、圭介は、工学寮美術学校の校長に就任。ちなみに「art」を「美術」と訳したのは圭介だそう。
更に、工部大学校の初代校長に就任。
明治10年(1877)、西南戦争が勃発。この時、圭介は、西郷軍に包囲された熊本城と連絡を取るため「気球」の制作を試みたそうです。
そして、元老院議官となる。
明治19年(1886)、学習院の第三代院長に就任。
華族女学校校長を兼務。
圭介は、技術者として、そして、教育者として、仕事をすることに。
その後、圭介は、教育の道を離れ、外交官となります。
清国の全権大使に任命され、北京に赴任。
さらに、朝鮮国の公使を兼任。
この頃、朝鮮国の情勢は不安定で、国は混乱をして行くことになります。それに、清国と日本が朝鮮国での主導権を巡って駆け引きを繰り返し、大鳥圭介は、その最前線で活動をすることになります。
朝鮮政府の主導権を清国、日本の、どちらが握るのか。そして、清国、日本は、戦争という事態となってしまうのか。それとも、戦争は、回避されるのか。
総理大臣、伊藤博文と外務大臣、陸奥宗光は、戦争は避けるに越したことはないが、戦争になっても仕方がないという立場だったよう。しかし、陸軍や、世論は、清国との戦争を支持し、事態は、開戦の方向に向かうことになる。
そして、ついに、日清戦争が勃発。
その中で、大鳥圭介は、ソウルに軍を入れ、朝鮮政府を日本政府の支配下に置こうと活動しますが、朝鮮政府の権力者、大院君は、これに強く抵抗し、圭介は、朝鮮国公使を解任され、帰国。
大鳥圭介は、政治の第一線を退くことに。
圭介は、第一回から国内勧業博覧会にも関わり、第五回には、審査総長に任命をされる。この「博覧会」という言葉を作ったもの、圭介ではないかということ。
そして、明治44年(1911)に、79歳で、亡くなる。
さて、大鳥圭介と、日清戦争について。
明治26年(1893)7月15日、圭介は、清国特命全権公使に加えて、朝鮮国の公使を兼任することを命じられる。この年の始めから、「東学党の乱」が起こり、朝鮮政府は、この反乱を抑えるため、翌、明治27年(1894)5月、清国に出兵を依頼することになる。この時、圭介は、外務省の命令で、日本に帰国をしていた。6月、日本政府は、朝鮮への出兵を決定し、圭介にも、ソウルに戻るように命じる。
政府は、広島第五師団歩兵第11連隊第一大隊の出発を命令。圭介は、海軍陸戦隊と共に朝鮮に向かう。この時、総理大臣、伊藤博文は、あくまで「平和裏」に事を進めるように圭介に命じたよう。しかし、外務大臣、陸奥宗光は、「平和を第一とするが、君の裁量に任せる」と圭介に言ったよう。
海軍陸戦隊と共にソウルに入った圭介は、「東学党の乱」が終結していたことを知る。圭介は、清国軍を率いる袁世凱と対談し、互いに、これ以上の軍に派遣を停止することに合意をするが、日本政府は、すでに開戦を視野に入れて、軍の増派を決定。圭介も、方針を転換することになる。
日本政府は、朝鮮政府に、日本に味方をするように、直接、圧力をかけ、圭介には、朝鮮国王と政府の説得を命令。しかし、朝鮮国王は、圭介の説得に応じない。
圭介は、朝鮮国の内政改革を強く求めていた。しかし、当然、朝鮮国政府は、これに応じない。ここで、岡本柳之助という人物が、大院君の担ぎ出しを画策する。大院君は、朝鮮国王の高宗の実父だが、高宗の妃、閔妃と対立し、失脚をしていた人物。
7月23日、圭介は、大島旅団長と共に、計画を実行に移す。日本軍は、朝鮮国の王宮を占拠。大院君は、日本側の説得を受け、王宮に入ることになる。圭介は、大院君と面会し、内政改革の推進を約束。7月25日、大院君は、清国と朝鮮国の宗属関係の破棄を宣言し、清国軍の撤退を圭介に依頼する。
これを受け、同日、日本軍の軍艦が、清国の輸送船を砲撃。日清戦争が始まることになる。ちなみに、宣戦布告は、8月1日ということ。
日清戦争は、日本軍の優位に進んだ。しかし、圭介の第一の目的は、朝鮮国の内政改革で、これは、遅々として進まなかった。理由は、大院君が、内政改革の案に、ことごとく反対をしたため。
日本国内の世論は、「大鳥公使を交代させろ」と言う意見が高まる。
総理大臣、伊藤博文は、大鳥公使の交代を決め、圭介は、朝鮮国公使を解任され、日本に戻ることになる。
さて、この大鳥圭介と戊辰戦争については、また、別の機会に、紹介をしようと思っています。
ちなみに、大鳥圭介が亡くなった時、世間では「旧幕府脱走兵を率いて戊辰戦争を戦った人物」というよりも「日清戦争を、開戦に導いた人物」として有名だったよう。
そして、昔、「鳳啓助」という芸人さんが居ましたが、この人は、この「大鳥圭介」の生き方を尊敬し、名前を貰ったそうです。