毛利輝元という人物。
知名度の高さに比べて、一体、どういう人なのかということに関しては、あまりイメージが沸かない。
西国一の大大名にしては、印象が薄いですよね。
毛利輝元は、何をしたのか、と、聞かれても、パッと思い浮かぶことがない。
毛利輝元に焦点を当てた本といえば、この本くらいでしょうかね。
なかなか、面白く、興味深いですが、この本には、毛利輝元は、戦国大名として、外に打って出ることに関しては、得意ではなかったようですが、内を守ることに関しては、とても長けていたようだと書かれていました。
関ケ原で家康に屈した格好となり、その後、毛利家を、どうやって維持して行くのか、そして、いかに、毛利家内部での自身の権力を強化するのか。
そういうことに関しては、輝元は、なかなかの手腕を発揮したようです。
さて、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利家を、一躍、中国地方の大大名に押し上げたのは、祖父の毛利元就です。
そして、本来なら、元就の嫡男、隆元が家督を継ぎ、元就の亡き後、毛利家を背負って立つはずだったのですが、この毛利隆元が、若くして亡くなってしまいます。
そのため、隆元の嫡男だった輝元が、毛利家の家督を継ぐことになる訳ですが、まだ、十歳を過ぎたばかり。
当然、祖父、元就の後見が無ければ、毛利家は成り立たない。
そして、輝元が元服をすると、元就は、隠居をし、輝元に実権を渡そうとしますが、輝元は、それを、必死で押しとどめているようです。
祖父、元就が、あまりにも偉大であり過ぎたのと、自分自身に、毛利家を背負う自信が無かったのでしょう。
そこで、元就は、隠居を思いとどまり、亡くなるまで、毛利家の実権を持ち続ける訳ですが、元就は、そこで、一つの手を打ちます。
それは、他家に養子に出していた次男、吉川元春、三男、小早川隆景を、毛利家の政治に参加をさせること。
本来、他家に養子に出した人物は、実家の政治には関わらないのが普通だそうですが、元就は、敢えて、この慣例を破ったということ。
これには、やはり、まだ若い輝元が、毛利家奉行衆の傀儡にされることを元就は懸念をしていたから、と、言うことになるようです。
元就自身、家督を継いだ時に、毛利家重臣への対処には、相当に苦労をしている。
元就自身は、自分を蔑ろにする重臣を粛清し、実権を握る訳ですが、輝元には、なかなか、そういうことは不可能だろうと感じていたのでしょう。
恐らく、毛利輝元の戦国大名としての影は薄いのは、この二人の叔父の存在によるところが大きいのでしょう。
特に、小早川隆景は、毛利家の正面に立って、外敵に対することになる。
輝元は、その影に隠れてしまった印象ですよね。
そして、秀吉の配下となってから間もなくして吉川元春が亡くなり、秀吉が天下を統一して間もなく、小早川隆景が亡くなる。
いよいよ、毛利輝元が毛利家当主として全面に出て来る訳ですが、ここでもまた、影が薄い。
しかし、史実としては、やはり、西国一の大大名として、徳川家康に対抗をすることが出来る人物として、周囲の期待は大きかったようですね。
そして、実際、輝元自身にも、その自負があったよう。
しかし、豊臣秀吉の死後、政治は、毛利輝元を中心に回った訳ではない。
徳川家康の対抗馬として正面に立ったのは、前田利家であり、石田三成だった。
そのために、軍事的に大きな期待を寄せられながらも、影が薄いという結果になってしまったのかも。
そのために、後世では、関ケ原の戦いで、輝元が西軍の総大将となったのは、「傀儡」だったという説が出ることになる。
しかし、それは、今では、間違いだったということが分かって来ているようですね。
毛利輝元は、かなり、積極的な動きを見せていて、自ら、「西軍総大将」としての活躍をしている。
決して、輝元は、西軍の「お飾り」の総大将では無かったということ。
しかし、輝元の主眼は、家康を破り、自ら天下人になるというよりも、あくまでも、毛利家の勢力の拡大だったようですね。
そのため、結局、徳川家康との全面対決は、避けてしまう格好となり、その点、天下を争うための「気概」というものが、輝元には無かったということになる。
もし、毛利輝元が、徳川家康と全面対決をする意思があれば、恐らく、関ケ原で、徳川家康は、西軍に勝てなかった。
と、個人的には思っています。
もし、輝元に、その意思があれば、徳川幕府ではなく、毛利幕府が、日本を支配していたのかも知れないと思うと、残念なところでは、ありますが。
さて、この毛利輝元が「関ケ原の戦い」で、どのような行動をしていたのか。
ウィキペディアを元に、書いてみます。
慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉、死去。
8月28日、輝元は、石田三成ら四奉行に対して、「五奉行の意見に同意しない者があれば、自分は五奉行に味方をする」という起請文を出す。
この時、輝元は、家康に対抗するため、上方に兵を集めていたそうです。
9月3日、五大老、五奉行は、起請文を交わし、一応、対立は収まる。
慶応2年(1599)閏3月、前田利家の死去の直後、福島正則、加藤清正らが、石田三成を襲撃。三成は、伏見城の自邸に逃げ込み、輝元に尼崎への出陣を要請。
しかし、徳川家康の仲介で、三成が、佐和山に隠居をすることで、決着をつける。
この仲介には、輝元、上杉景勝も関わっていたということ。
同21日、輝元と家康が起請文を交わす。これは「家康を兄、輝元を弟」または「家康を父、輝元を息子」とするということで、事実上、輝元は、家康に屈服をしたと言える。
4月、家康は、輝元の領国支配に介入。輝元は、毛利秀元、吉川広家の間で、所領の問題を抱えていて、その対応に苦慮していたのだが、家康の介入で、一応の決着を見ることに。
慶長5年(1600)6月16日、家康が、上杉討伐に出陣。
この直前、輝元は、広島に帰国。
7月、石田三成が挙兵。12日付けの前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の書状で、輝元は、上坂を求められる。
15日、書状を受け取った輝元は、即座に、広島を出陣し、19日に、大坂城に入る。当時の日記によると、その兵力は六万だったということ。
17日、「内府ちがいの条々」が、全国の諸大名に向けて発信される。西軍の徳川家康に対する宣戦布告。
19日、大坂城西の丸に入った輝元は、西軍の総大将になる。嫡男、秀就を、本丸の豊臣秀頼の側に置き、輝元を総大将とする西軍は、「公儀」となったということ。
同日、宇喜多秀家らが、伏見城攻撃を開始。
九州に向けては、輝元は、広島に居た大友吉統を、旧領である豊後国に派遣。
更に、西軍である毛利吉成(元は、森氏で、輝元とは同族ではない)の豊前国の領地にも兵を派遣し、支配下に入れる。
四国では、東軍に属した蜂須賀至鎮の領国、阿波国に軍勢を派遣し、徳島城を占領する。
また、伊予国では、東軍に属した加藤嘉明、藤堂高虎の領地に軍勢を派遣し、国人を蜂起させて、戦闘を行う。
7月23日、輝元は、伏見城攻撃のために軍勢を派遣。8月1日に、落城させる。
8月5日、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らが出陣し、伊勢国安濃津城を攻めた後、9月10日、南宮山に到着。
9月14日、吉川広家と、徳川方との間で、和睦が成立。
9月15日、南宮山の毛利勢は、関ケ原の戦いに参加をせず、西軍の敗北を見て、撤退する。
17日、徳川家康が、輝元に書状を送り、今後も良好な関係を維持することを約束し、大坂城からの退去を促す。
18日、毛利軍が、大坂に帰還。しかし、大坂城には入らず、大坂の町に駐屯。
22日、輝元は、所領の安堵を条件に、大坂城から退去をするという起請文を家康に出す。
25日、家康から所領を安堵するという起請文を受け取り、大坂城から退去。
以上、毛利輝元の「関ケ原の戦い」での行動です。
やはり、感想としては、徳川家康に対抗できる大きな軍勢と、また、豊臣秀頼を手中にして「公儀」となったという政治的に有利な立場を得て、更に、大坂城という天下の名城に居るという有利な立場にありながら、徳川家康を破り、天下人になれなかったというのは、やはり、輝元の「考えが、甘い」ということ、そして、自ら「天下人になる」という気概の無さを感じるところ。
そこは、自ら、戦国大名になった訳ではないという「三代目」の甘さだったのでしょうかね。