さて、「手取川の戦い」で、織田軍を率いた「柴田勝家」について。
柴田勝家という人。
織田信長の家老筆頭として、歴史に、少しでも関心のある人ならば、誰もが知っている有名な人物なのでしょう。
しかし、この本を読んで、初めて知ったことですが、どうも、この柴田勝家という人物。
確かな史料が少なく、詳しいことが、ほぼ、分かっていないようですね。
自身の出自も、よく分からないということ。
親のことや、身内のことも、よく分からないという話。
残された史料が少ないというのは、柴田家が、大名として残らなかったので、仕方がないことなのでしょう。
それに加えて、やはり、柴田勝家という人物が、知名度に比べて、世間の人気が高くないということも原因なのではないでしょうかね。
世間の人気が高ければ、多くの人が関心を持ち、史料が少ないなりに、研究は、進んでいたでしょうから。
織田信長に仕える以前の柴田家の身分や、役職も、よく分からないようですね。
しかし、織田信秀の死後、織田家家督が、信長、信勝の二人に分割相続をされた時に、信勝の重臣となったことから、織田家の中では、かなり、高い身分にあったのだろうと思われる。
信長、信勝の二人は、織田家家督を巡って争うことになりますが、この時、勝家は、信長に合戦で敗れたと言われていますよね。
しかし、それは、この本によれば、誤りだということ。
信勝軍が、信長に敗れた時、柴田勝家は、その戦場には居なかったという話のよう。
そして、勝家は、信勝を見限り、信長に仕えることになる。
柴田勝家が、信長の武将として頭角を現すのは、足利義昭を擁した上洛戦の頃からですよね。
美濃国と京都を結ぶ、重要地点である近江国に、信長は、有力武将を何人か配置をする訳ですが、勝家は、その中の一人に選ばれる。
明智光秀や、羽柴秀吉は、武将としてだけではなく、奉行としての活躍も多く見えますが、勝家には、その印象は無いですよね。
やはり、「文」よりも「武」に長けた武将だったということでしょうか。
織田信長は、次第に、将軍、足利義昭と対立をし、元亀から天正にかけて、周囲を敵に囲まれ、特に、元亀元年に始まる「志賀の陣」は、信長の人生で、最大の危機と言われますが、この時、森可成、坂井政尚と言った、有力武将たちが討ち死にをすることになる。
もし、彼らが生きていれば、その後、柴田勝家の有力な与党になっていたのではないかと、この本には書かれていました。
そして、柴田勝家は、近江国を拠点に、各地を転戦し、武将としての立場をゆるぎないものにする訳ですが、やはり、大きな転機になったのが、信長が朝倉氏を滅亡させた後、越前国北の庄を与えられ、更に、「北陸方面軍」の司令官に任命されたこと。
この柴田勝家が北陸方面軍司令官となったことで、この北陸には、比較的、多くの勝家に関する史料が残されているということのよう。
そして、この北陸方面軍司令官となった柴田勝家の下には、前田利家、佐々成政といった有力な「与力」が付けられることになる。
個人的な想像では、これは、今後、北陸方面軍が戦わなければならない強敵の「一向一揆」に対処をするための信長の配慮だったのでしょうが、この「有力な与力」が、その後の柴田勝家の行動を縛ることにもなる。
さて、上杉謙信と柴田勝家の織田軍が戦った「手取川の戦い」についてですが、この本の著者は、「手取川の戦いは、無かった」と考えているようですね。
恐らく、現地で蜂起した一揆勢と、織田軍の小競り合い程度の戦闘はあったのだろうということ。
そして、この「手取川の戦い」に関する「信長公記」の不自然な記述は、単なる、「書き間違い」だろうと、この本には書かれていました。
さて、上杉謙信の死後、柴田勝家の北陸方面軍は、加賀国を平定。
更に、能登国、越中国へと侵出することになる。
上杉謙信の後を継いだ越後国の上杉景勝と対峙し、越中国の魚津城を攻撃している最中に、「本能寺の変」が起こる。
この時、当然、柴田勝家は、一刻も早く、明智光秀を討とうと考えていたのでしょうが、前田利家ら、勝家の与力たちは、自らの領地を守ることを優先しようとしたようですね。
つまり、一揆勢の蜂起などで、自分の領地が混乱をすることを懸念し、明智光秀討伐に向かうことに消極的だったということのよう。
もちろん、柴田勝家は、光秀討伐に向かいますが、すでに、それは、羽柴秀吉が光秀を討った後だった。
明智光秀を討った羽柴秀吉は、自身が「天下人」となるための野心を隠さず、次から次へと、「天下人」となるための手を打ち、実行して行く。
これに対して、柴田勝家の動きは、かなり鈍い。
その理由は、やはり、柴田勝家は、あくまでも、織田家の「家臣」であり、自ら、「天下人」になろうと思っていた訳ではない。
本来なら、この羽柴秀吉の行動に対処をしなければならないのは、織田信雄や織田信孝であり、柴田勝家ではない。
柴田勝家のするべき役割は、羽柴秀吉に対抗をしようとすうる織田信雄や、織田信孝のサポートに過ぎない。
しかし、織田信雄、織田信孝は、武将としての力量、政治家としての力量に欠け、とても、羽柴秀吉に対抗することが出来るレベルの人間ではなかった。
そこで、やむなく、柴田勝家が、立ち上がることになったのではないでしょうか。
そして、「賤ヶ岳の戦い」が起こる。
天正10年(1582)12月、先に軍事行動を起こしたのは羽柴秀吉で、柴田勝家の領地である近江国に攻め込み、長浜城を落とす。
更に、岐阜城の織田信孝を攻め、降伏させる。
天正11年(1583)1月、伊勢国の長島城で滝川一益が挙兵。羽柴秀吉は、伊勢国に入りますが、滝川一益の抵抗は激しく、容易に城は落ちなかった。
2月末、柴田勝家が、越前国北の庄から出陣。
3月、近江国に布陣をした勝家軍に対して、羽柴秀吉は、滝川一益への抑えを残し、近江国に向かう。羽柴軍、柴田軍が、近江国で対峙するが、双方、動かず。
双方、陣地を構築し、持久戦の様相となる。
4月、再び、織田信孝が、岐阜城で挙兵。柴田軍が動かないと見た秀吉は、美濃国に向かい、大垣城に入る。
4月19日、羽柴秀吉が、美濃国に移動したのを見て、柴田軍の佐久間盛政が、大岩山砦の中川清秀を攻撃し、清秀は討ち死に。更に、岩崎山の高山右近を攻撃し、右近は、佐久間盛政軍を支えきれず、撤退をする。
緒戦では、柴田軍が、羽柴軍の有力武将たちを打ち崩し、勝利を飾りますが、佐久間盛政は、そのまま、大岩山砦を占拠し続けたよう。
これが、柴田軍の弱点になったと、この本には書かれていました。
この佐久間盛政は、近江国に残った羽柴軍の中に取り残される格好になったようですね。
なぜ、一度、軍を引かなかったのか。
確かな理由は、分からないということのよう。
柴田軍が動いて、大岩山砦が落ちたという報告を受けた羽柴秀吉は、急遽、大垣城から近江国に引き返します。いわゆる「美濃大返し」です。
想像を越える速さで、羽柴秀吉は、軍勢と共に、近江国に戻り、21日、佐久間盛政に総攻撃を掛けます。
この時に活躍をしたのが、いわゆる「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる人たち。
実は、この時の戦闘で、実質的に戦闘に参加をしていたのは、羽柴秀吉、柴田勝家、共に、直参家臣たちだけだったようで、有力与力大名たちは、戦闘に、直接の参加はしていないよう。
なぜなら、羽柴秀吉の有力与力大名は、中川清秀が戦死。高山右近は、大きな被害を受けて撤退。細川藤孝と筒井順慶は、自身の国元に帰っていたそう。
ちなみに、蒲生氏郷は、滝川一益への抑えとして伊勢国に留まっている。
そして、柴田勝家軍の方では、前田利家ら、有力与力大名は、そもそも、柴田勝家の家臣ではなく、命を懸けて柴田勝家のために戦わなければならない義理はない。
柴田勝家と羽柴秀吉の双方を天秤にかけ、有利な方に付けば良い話で、実際、前田利家は、羽柴秀吉が有利と見て、戦場を離脱しているよう。
それに続いて、柴田軍の他の与力大名たちもまた、次々と、退却を始めたそう。
そのため、柴田軍が劣勢ということになり、羽柴軍は、一気に、柴田勝家軍本隊に襲い掛かることになる。
結局、自身の与力大名を、自分の家臣のように扱うことが出来なかったということが、柴田勝家の敗因ということになるのかも。
ちなみに、別の本に書いてあったことですが、羽柴秀吉は、織田信長の生きていた頃から、信長から付けられた与力大名などに、自ら、扶持を与えたりして、自身の家臣化を図っていたようです。
この「狡猾さ」が、羽柴秀吉にはあって、柴田勝家には無かったということになるのでしょう。
やはり、将来的に「天下人」になることを狙っていた羽柴秀吉と、あくまでも「織田家家臣」に過ぎなかった柴田勝家の違いということになるのではないでしょうか。
さて、この「賤ヶ岳の戦い」で敗北をした柴田勝家は、越前国北の庄城に追い詰められ、妻の「お市の方」と共に、自害をすることになる。
実は、この柴田勝家と「お市」とが、何時、結婚をしたのかということも、定かではないそうですね。
しかし、この勝家、お市の最後は、それを見届けた女性が、城を脱出し、保護されたそうで、その最期の様子については、信ぴょう性が高いのではないかという話。
この柴田勝家の人生を見ていると、「有能」ではありますが、「潔白」に過ぎたのではないかと感じるところ。
やはり、「野心」の無い人間が、「野心」のある人間に勝って、生き残るというのは難しいことなのかも。