「三国志」は、「黄巾の乱」に始まり、「晋」による中国統一で終わる訳ですが、恐らく、「三国志」ファンの多くの人たちは、「諸葛亮の死」以降、大きな関心を持っている人は、それほど、多くはないのではないでしょうか。

一つは、物語的に、それほど、面白いものではないということ。

一つは、なかなか、歴史の流れが分かり辛いということ。

 

物語的に面白くないというのは、やはり、それ以前、曹操や劉備、諸葛亮のような、物語の中心になる人物が居ないということに原因があるのではないでしょうか。

そして、歴史の流れが分かり辛いというのは、基本的に、魏、呉、蜀が、内部の権力争いに終始しているからということになると思います。

 

 

この本は、劉備の死、以降、司馬炎による中国の統一までが、簡単に、まとめられていて、読みやすく、面白いです。

 

さて、蜀の諸葛亮が「北伐」を始めるきっかけは、魏の曹丕の死による。

曹丕の後を継いだのは、曹叡です。

曹叡は、諸葛亮の北伐、そして、呉による合肥への侵攻を、よく防ぎ、国をよく守ります。

そして、公孫淵の反乱を鎮圧。

それから間もなく、曹叡が病となり、曹芳を後継者とし、亡くなります。

 

この曹芳の補佐に任命されたのが、曹爽と司馬懿の二人。

しかし、次第に、曹爽が権力を握り、政権を私物化して行きます。

政治、軍事に経験豊かで、実績もある司馬懿に対して、これといって、何の実績もなかった曹爽は、蜀への侵攻を決意しますが、蜀軍に大敗を喫する。

司馬懿は、曹爽の専横に対して、身を守るため、病と称して、引きこもることに。

そして、曹爽の油断を誘ったところで、クーデターを決行します。

これが、「正始の政変」です。

ここから、司馬懿が、魏の実権を握ることになります。

 

一方、呉では、孫権の後継者だった孫登が、若くして死去。

ここから、後継者を巡って、混乱が始まります。

そして、孫権は、孫和を、後継者に指名します。

しかし、孫和の弟、孫覇もまた、孫権の後継者の地位を狙い、孫権もまた、孫覇を、孫和と同等に扱うことになる。

ここで、呉は、孫和派、孫覇派の二つに分裂し、激しく、対立をすることに。

これを「二宮の変」と言います。

孫権は、「このままでは、呉の国が分裂をしてしまう」と、孫和を幽閉、孫覇を処刑して、事態の収拾を図ります。

そして、孫権は、末子の孫亮を、自身の後継者とします。

この頃、魏が、呉への侵攻を行いますが、呉は、これを撃退。

 

さて、魏の実権を握った司馬懿ですが、この司馬懿の専横に反発をする勢力が、皇帝の曹芳を廃し、曹彪を皇帝として、司馬懿を排除しようと動きます。

しかし、その計画を察知した司馬懿は、首謀者である王凌を討伐。

曹彪以下、関係者を全て処刑し、曹氏に繋がる王公は、全て、一か所に集められ、監視下に置かれることになる。

それから間もなく、司馬懿は、死去。

司馬師が後を継ぎます。

 

呉では、孫権が死去。

孫亮が、後を継ぎますが、この時、まだ9歳。

その直後から、政権を担う諸葛恪と孫弘が対立し、諸葛恪は、孫弘を殺害。

諸葛恪は、呉の実権を握ります。

諸葛恪は、呉に侵攻をした魏軍を破り、功績を挙げます。

 

諸葛亮の死後、蜀の政治を担ったのは、嶈琬です。

そして、魏への備えの軍事を担ったのは、姜維。

嶈琬もまた、一度、北伐を計画したそうですが、これは、実行に移されることは無かったよう。

そして、嶈琬の死後、費禕が、蜀の政治を担うことになる。

しかし、費禕は、魏の降将によって、暗殺をされる。

ここから、蜀の混乱が始まります。

 

連年のように、姜維は、北伐を実行。

成果を挙げられないまま、蜀は、疲弊をして行きます。

そして、政治では、劉禅の信頼を得た宦官の黄晧が実権を握ることになる。

 

魏では、司馬師の専横に不満を持つ勢力が、司馬師の排除を目論みますが、司馬師は、この企てを未然に防ぎ、関係者を処刑。

更に、皇帝の曹芳を退位させ、曹髦を皇帝とします。

これに反発をした毌丘倹が反乱を起こしますが、司馬師は、これを鎮圧。

そして、間もなく、司馬師は、死去。

弟の司馬昭が、後を継ぐことに。

そして、諸葛誕が反乱を起こしますが、司馬昭は、これを鎮圧。

 

呉では、孫綝が実権を握ったいましたが、皇帝の孫亮は、これに反発。

孫綝は、孫亮を廃位し、孫亮の兄、孫休を帝位に就け、自身は、丞相として実権を握る。

しかし、孫休は、孫綝を殺害。

呉の国は、著しく、衰退をして行くことになる。

 

魏では、曹髦が、司馬昭の殺害を決意。

しかし、曹髦に味方をする人は少なく、計画は、司馬昭に伝えられる。

しかし、曹髦の決意は固く、司馬昭殺害のために軍を率いて戦いを挑みますが、司馬昭の軍に敗れ、曹髦は、殺害される。

そして、司馬昭は、曹奐を、帝位に就ける。

 

職では、政治の実権を握った宦官の黄晧が、姜維を排除しようと企み、それを察した姜維は、成都に戻ることが出来なくなる。

姜維は、沓中に駐屯し続け、まだ、北伐を諦めていなかった。

そして、ついに、魏の司馬昭が、蜀の征伐を決意。

魏の大軍が、蜀に向かって、南下を始める。

 

鄧艾軍が、沓中に向かい、姜維と戦う。

諸葛緒軍は、鄧艾に協力し、姜維の背後を断つ。

鍾会軍は、漢中に向かう。

 

魏軍の動きを察知した姜維は、劉禅に援軍を要請しますが、黄晧は、それを握りつぶす。

しかし、いよいよ、魏軍が迫ると、慌てて、援軍を派遣。

しかし、それは、間に合わず、鍾会軍は、漢中へと侵攻。

鄧艾軍と対峙していた姜維は、漢中が魏軍に手に落ちたと知り、退却する。

姜維は、鄧艾軍の追撃を受けますが、何とか、援軍の張翼らと合流し、剣閣に立てこもる。

鍾会軍は、姜維の立てこもる剣閣を攻撃。

鄧艾軍は、険しい山岳地帯を突破し、蜀に侵攻。

劉禅は、成都に入った鄧艾に、降伏。

ここに、蜀は、滅亡する。

 

劉禅の降伏を知った姜維は、剣閣から退却。

武装解除をして、鍾会に投降することに。

しかし、姜維は、鍾会が、魏への謀反の意思があることを察知し、鍾会をそそのかし、蜀の復興を企む。

鍾会は、鄧艾に謀反の意思があると曹奐に報告。

鄧艾を捕縛し、護送中に殺害。

成都に入った鍾会は、魏に対して、反旗を翻す。

しかし、鍾会は、部下の掌握に失敗し、鍾会、姜維は、共に、殺害されることになる。

 

この頃、司馬昭は、魏で晋公に封じられ、皇帝に準ずる待遇を与えられる。

そして、蜀の平定後、晋王となり、皇帝と同じ待遇を得る。

しかし、間もなく、司馬昭は死去。

司馬炎が、後を継いで、晋王となる。

 

呉では、孫休が皇帝になった頃から、衰退の一途をたどっていた。

蜀ば滅亡をした頃、孫休は亡くなり、孫和の子、孫晧が帝位に就く。

しかし、孫晧は、政治を顧みず、暴虐を尽くしたため、ますます、呉は衰退に向かうことに。

 

魏では、司馬炎が、曹奐に、帝位の禅譲を迫り、ついに、曹奐は、帝位を司馬炎に譲ることに。

ここに、魏が滅び、晋が建国されることになる。

そして、司馬炎は、呉の征伐のため、大軍を派遣。

孫晧は、降伏し、晋が、中国を統一。

「三国志」の時代は、終わることになる。

 

さて、他の本で読んだ記憶を、いくつか。

 

諸葛恪は、諸葛亮の兄、諸葛瑾の子。

子供の頃から、才気煥発で、孫権に目をかけられたそう。

孫権の死後、皇帝、孫亮の元で、政治の実権を握った諸葛恪ですが、魏軍の侵攻を打ち破って名声を高めたものも、翌年、逆に、大軍と共に、魏の合肥を攻めますが、失敗。

その後も、失政が続き、人望を失った諸葛恪は、孫峻によって、殺害されることになる。

孫峻もまた、諸葛恪と同じく、皇帝を傀儡にし、独裁政治を行い、信望を失ったようですが、孫峻の死後、弟の孫綝が、実権を握ることになる。

 

諸葛亮と諸葛瑾は、母親が違うのではないかという話を、以前、どこかで読んだ記憶もあります。

 

また、曹操に始まる魏では、軍事指揮権を持ったのは、曹操の一族である曹氏と、縁戚にある夏侯氏に限られていたそうですね。

「三国志」には、多くの武将が登場しますが、魏の武将は、この曹氏、夏侯氏の配下で、活躍をしていたということになる。

しかし、蜀の諸葛亮に対処をする中で、曹氏、夏侯氏以外で、初めて、司馬懿が、この軍事指揮権を持つことになる。

諸葛亮の北伐を防ぐことになるのも司馬懿で、公孫淵の反乱を鎮圧したのも司馬懿。

司馬懿が、いかに、優れた人物だったかが、よく分かる。

 

また、姜維という人物。

諸葛亮が亡くなった後、蜀の軍事面を担うことになる訳ですが、なぜ、姜維が、無謀とも言える北伐を繰り返していたのか。

 

この姜維は、涼州の出身で、諸葛亮の第一次北伐の時に、蜀に降伏することになる。

その後、諸葛亮に目をかけられた訳ですが、姜維は、あくまで、「よそ者」だったということ。

蜀の政治は、荊州出身の荊州閥、益州出身の益州閥の人たちが握り、姜維は、蜀の政治に、影響力を持つことが出来なかった。

そのため、蜀の中で、自分の存在意義を認めさせるためには、北伐をするしかなかったということ。

 

さて、この「三国志」という物語。

 

もともとは、三世紀の後半に、蜀、晋に仕えた陳寿が記したもの。

「魏書」「呉書」「蜀書」に分かれ、紀伝体で記されているということ。

陳寿の死後に、晋によって「正史」と認められたそうですね。

 

五世紀に、宋の文帝の命令で、裴松之が、二百余りの史料を精査し、その中から、三国に関連する逸話を、「三国志」の中に、「注」として付けくわえたということ。

 

そして、唐の時代には、芸人が、北宋の時代には、講釈師によって、この「三国志」が語られるようになる。

 

14世紀末の明の時代に、羅漢中が、「三国志演義」を記す。

羅漢中は、様々に語られていた「三国志」の物語を、出来るだけ、史実に近い形でまとめようとしたということ。

この「三国志演義」は、史実が七割、虚構が三割と言われるそうです。

 

やはり、「三国志」は、武将たちが、華々しく合戦を繰り広げる場面が、印象的で、様々な駆け引きや、武勇を争う戦いが、物語を面白くしている。

しかし、諸葛亮の死、以降の「三国志」は、魏、呉、蜀の、それぞれの内部での、ドロドロとした権力争いが主で、多くの人が興味を引く物語を作ることは難しい。

と、言った印象ですね。