梶井基次郎の小説に「のんきな患者」という作品があります。

この「のんきな患者」は、梶井基次郎の最後の作品であり、唯一、商業誌で発表された作品でもある。

 

 

 

 

この「のんきな患者」は、それ以前の同人誌に発表をされた作品とは、文章、雰囲気が、かなり違っている。

これは、商業誌での発表ということが関係をしているのだろうと思っていましたが、どうも、ネットを見ると、それだけではないよう。

 

基次郎は、これまで、「詩的」な作品を書き、高く、評価をされていましたが、この「のんきな患者」では、「本格的な客観小説」を目指したということ。

そのため、基次郎の「詩的」な作品を好む人からすれば、あまり、評価は高くないということのようで、それは、僕も、同じ感覚。

基次郎には、「社会に根差した」作品を書きたいという思いがあったそうですね。

しかし、労働をしていないことで、実社会と密接していない自分の境遇に悩みもあったよう。

そのため、この「のんきな患者」で、「本格的な客観小説」を目指したということのようですが、この作品を書きあげて間もなく、基次郎が亡くなってしまったため、それ以上の発展が無かったのが、残念。

 

さて、この「のんきな患者」は、結核で療養をしている主人公の吉田の生活と、その周辺の物語。

かつて、「結核」は、日本人の死因の第一位で、多くの人が、結核で亡くなっていた。

基次郎自身も結核で亡くなっているので、この「のんきな患者」に書かれている内容は、恐らく、基次郎自身が経験をしたことでもあるのでしょう。

 

この小説の中に書かれていましたが、結核で亡くなる人の10人のうち9人が、貧しい人だったようですね。

先日、たまたま、ニュースで結核の話をしているのを聞きましたが、この結核という病気は、結核菌に感染をした人が、全て、発症をするという訳ではないそうです。

結核に感染し、発症をする人は、やはり、栄養状態の悪い人、身体の弱っている人が多いということ。

つまり、結核を発症する人は、そもそも、貧しい人が多い。

 

そして、また、小説の中で語られていますが、貧しい人は、結核を発症しても、まともな治療を受けることが出来なかったようですね。

基本的には、家で、寝ているだけ。

そして、藁にもすがる思いで、得体の知れない、民間療法、迷信に頼ることになる。

「こうすれば、結核が治る」

という話が、当時は、色々とあったようで、小説の中にも、いくつか、書かれている。

もっとも、そのようなもので結核が治るはずはないということは、主人公の吉田も、ちゃんと理解をしている。

 

そして、天理教の信者の女性が、「自分は、天理教を信じることで結核が治った」と吉田に話しかけて来る。

そして、しきりに、吉田を天理教に誘うのですが、吉田は、それを断って、逃げる。

 

医学が未発達の時代、「宗教」の大きな役割の一つが、「病気を治す」ということ。

「新約聖書」を読んでも、イエス・キリストが、人々の病気を治す場面が、たくさん、出て来る。

今の時代でも、やはり、自身や身内が、重い病気になると、宗教は、大きな心の支えになる。

もっとも、その弱みに付け込んで、金儲けをしようというエセ宗教も多いので、気をつけないと。

 

日本には、医療保険があり、気軽に病院にかかることが出来るというのが、有り難いですよね。

外国では、そもそも、病院に、なかなか、行けないという話。

更に、病院に行っても、日本では考えられない高額な治療費を請求されるという話も。

そのような国で、一般市民が、どうやって生活をしているのだろうと不思議なところです。